経済成長著しいベトナムのホーチミン市玄関口、タンソニュット空港もベトナム戦争当時の面影は消えた。初めてタンソニュット空港でバンコク行きの空港便を待ち合わせたのは1980年代の半ばだった。空港はベトナム戦争後まったく手が加えられていないばかりが、エアコンなどは壊れていて、猛烈な暑さにただ耐えなければならなかった。デューティ・フリーはおろか売店もない。欧米人は発砲スティロール製容器の蓋を開け、冷えた飲み物を取り出し、喉を潤している。旅なれた欧米人はあらかじめ飲み物を用意していたのだ。暑さの中、おいしそうに喉を潤す欧米人の姿を見ながら、飲み物を用意する必要を痛感していた。
それから1年後、カンボジアからのベトナム軍の撤退を取材した帰りに他社の記者と共にタンソニュット空港でバンコク行きのエア・フランスを待っていた時のこと。ベトナムに便を乗り入れているのは共産圏の国とかつての宗主国だったフランスぐらいだった。エア・フランスはパリからヨーロッパやアジアの拠点も回ってホーチミンに到着、往路を折り返してパリまで戻る。国連から経済制裁を受けている当時のベトナムに向かう乗客は少なく各地を回って乗客を集めていた。
当然、便は遅れがちだ。2時間ほど待っているのにエア・フランスは到着しておらず、何もないタンソニュット空港で暑さをもて余していた。珍しく初老の女性の日本人観光客がロビーに座っていた。退屈も手伝って話しかけてみた。ホーチミンの印象などの話題が尽きても、エア・フランスの到着に目処つかない。話は日本の昔話になり、筆者の家族は引揚者で戦後とりわけ貧しく、筆者が東京・立川市の米軍の寄付や軍属のボランティアで成り立っていた保育園に通っていたことにまで及んだ。偶然その女性日本人観光客も立川出身だったこともあって話が盛り上がった。保育園は米軍の影響なのかキリスト教系で園舎は旧日本軍の馬小屋を改造した粗末なものだった。良く賛美歌を歌わせられたこと、うらやましいほどの綺麗な服を着たアメリカ人ボランティアが訪問していたことなどを話した。
保育園のI園長はめがねをかけ頭が禿げ上がり、大きな声で話すユニークな人物だったと笑いながら話したとき、初老の女性が言い放った。「実は私はI園長の家内です。主人は昨年亡くなりましたが、健在なら主人も一緒に来る予定でした」汗がにじみ出たが、暑いせいではなく、冷や汗だった。
写真1:人影も疎らな80年代のホーチミン市
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