1997年7月、タイの通貨バーツの暴落で始まった通貨危機はたちまちアジア全域に及び、インドネシアではスハルト独裁体制が崩壊する引き金になった。通貨危機がアジア経済に及ぼした影響については専門家に任せるが、経済に疎い筆者も嵐のような通貨危機に翻弄された。
この日、兼務していたハノイ支局に出張する予定だった。用件は支局員の給料を払うことと暇ネタの打ち合わせだ。当時のベトナムはまだ日本の銀行も進出しておらず、ドルで支払う支局員の給料はバンコクの邦銀で引き出し、ハノイまで運ぶ社が多かった。
午後1時半バンコク発のハノイ行きのエア・フランスの航空券は購入済みで、午前中に銀行によって会社のドル口座から給料分のドルを引き出し、ハノイに向かう予定を立てていた。ところが通い慣れた銀行の雰囲気がいつもと違ってざわついている。銀行員に用件を伝えても、うわの空だ。ようやくバーツが暴落でドルとバーツの為替レートが定まらないということが分かった。
ドル口座からドルを引き出すのだから何の問題もないはずだとほっとしたが、行員は引き出せないと言う。ドルを現金化する時に発生する手数料はバーツ建てなので手数料が決まらない、ドル口座からドルを引き出すこともできないと言う。
急いで支局にとって返し、金庫にしまってある予備のドルと個人的に持っていたドルをかき集めたが、4人の支局員の給料にはとても足りない。飛行機の出発時間が迫っているので、とりあえずハノイに向かった。ハノイ支局の支局員に頭を下げ、基本給だけを支払い、残りは来月の給料まで待ってもらった。
ベトナムからバンコクに戻っても混乱は続いていた。1ドルが24バーツだった為替レートが1か月で37バーツに暴落した。もっと下がると予想されるが、事務所経費や取材経費を支払わなければならず、1ドル37バーツで引き出した。案の定、バーツはさらに下がり、1週間後には45バーツになった。
精算の基準を1ドル何バーツにするかが難しく、月末の会計報告は混乱を極めた。それでも筆者の苦労などは、現地雇用で働く邦人に比べれば微々たるものだ。
給料はバーツベースで支払われるため、円で計算すると給料が半分近くになったことになり、日本に住む家族に送金が難しくなった。さらに長年タイに定住し、タイ・バーツで貯金してきた人は貯金が半分に目減りした。アジア通貨危機の被害は邦人にも容赦なく及んだ。
写真1:90年代のハノイ
《アジアの今昔・未来 直井謙二》前回
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