第160回 国際都市だった宋代の福建省 直井謙二

第160回 国際都市だった宋代の福建省
明代になるまで福建省の省都の福州や泉州は、中央政権の権力があまり及ばなかった。宋代前以前は百越の一つで漂海民の性格を持っていた「閩」など、北部ベトナムから中国の浙江省あたりまで非漢民族が住んでいた。福建省などは1500メートルほどの山々が連なる武夷山脈などで地理的に切り離されていたこともあって、中原よりも海を隔てた同じ越族のベトナムなど南シナ海を超えた国々と関係が深かった。
泉州にはかつて国際貿易港であったことをうかがわせる文物が残っている。街の中心街にある清浄寺、名前から判断すると仏教寺院に思えるが、1000年以上前に建立されたイスラム寺院で泉州の地に早くからアラブ商人がきていたことを物語っている。
開元寺も壁画などは中国故事に沿ったものが多いが、壁画に描かれた顔立ちはモンゴロイド系ではなく、インド人に近く、建設にインド人が関わった可能性がある。泉州がかつて海のシルクロードの要衝であったことを示す碑が建てられている。(写真)

海岸から離れた小さな川に架かる橋のたもとに建つ碑は、宋代に貿易港が置かれていたことを示しているが、現在は住宅街にのまれていて見過ごしてしまいそうだ。1000年近くの歳月は地形を変え、川幅は3メートルほどになっていて錨を下ろした貿易船を想像することはできない。川の水はよどんで濁っていて、碑を除いて往時をしのべるものは何もない。
一方、泉州の海岸には倭寇が来襲してきたと書かれた碑が建っている。倭寇による略奪が海岸近くでたびたび起きていて、海岸での荷物の積み下ろしは危険だったとみられる。港湾設備もなく、風雨にさらされることもあって、貿易船は川をさかのぼり、内陸で積み下ろしを行っていたようだ。
14世紀、明代になると泉州や福州は国際都市としての地位を滑り落ちた。泉州に点在する寺の柱にヒンズー寺院の文様が描かれているものがある。幾つかの柱はさかさまになって建っている。
福建省を制圧した漢民族の明は、外国からの人や物を得た非漢民族が再び反旗を翻すことを恐れ、鎖国すると同時に多くのヒンズー寺院を壊し、柱などの瓦礫を寺や城壁を造る単なる石材として使ったためだ。
福建省が再び国際都市として本格的に活況を取り戻すのは1840年のアヘン戦争以降である。貿易ばかりでなく華僑となって多くの中国人が東南アジアに渡った。東南アジアに点在する華僑華人の墓の多くが清の末期に建立されている。
写真1:宋代の貿易港
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