第80回 スルー諸島に没した日本人移民 直井謙二

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第80回 スルー諸島に没した日本人移民

一部の移民は国策として行われ、恵まれない生活環境の中で若くして没した人の墓や慰霊碑がアジアにも点在している。マレーシアのサンダカンに眠るカラユキさんの墓は小説になったこともあり、有名だ。
8月の初め、9人のフィリピンの日本人2世が一時帰国し、先の大戦に巻き込まれた苦しい体験を語り、日本人としてのアイデンティティーを求め、情報提供を呼び掛けた。大戦でほとんどの文書が散逸し、中国の残留孤児と同様、日本人である証拠は日本に住む親類縁者の記憶だけが頼りだ。

一方、マスコミに注目されることもなく、また小説として取り上げられることもなく、フィリピンに没した日本人や日系人も多い。

フィリピン国軍と激しい戦闘を続けるイスラム武装グループ「アブサヤフ」やモロ・イスラム解放戦線(MILF)などが拠点にしているスルー諸島にもその痕跡があった。スルー諸島はフィリピンのミンダナオ島からマレーシアのボルネオ島の間に鎖のように点々とつながる島々である。

フィリピン国民の90%はカトリック教徒であるが、スルー諸島の住民はほとんどがイスラム教徒で、かつてはスルタンを戴く独立国だった。イスラム武装勢力は大幅な自治や独立を求め、長い間フィリピン国軍と戦闘を続け、取材は危険だった。

1990年代中ごろに政権に就いたラモス大統領は珍しくプロテスタントだったこともあって、イスラム武装勢力と停戦し、比較的落ち着いた時期があった。スルー諸島で一番大きなタウイタウイ島を取材していた時、島民が日本人の墓があると言うので案内してもらった。東南アジアでよく見掛ける太平洋戦争中に没した旧日本兵の墓か慰霊碑だろうと思って、島民について行った。

墓地には日本式の墓石が100柱ほど並んでいた。相当古いもので墓参に来る人も絶えたのだろう、墓地は現地の人の物干し場になっていた。(写真) 薄れてきた墓標を読むと、昭和の初期のもので、日本人の名前と「スルー日本人会」の文字が読める。出身地は熊本の天草がほとんどだ。

現地の人の話では、真珠の養殖のためかなりの数の日本人が入植し、スルー諸島で没した人の墓だという。真珠の養殖の夢はたぶん砕け散ったと思われる。もはや、「スルー日本人会」も存在しない。手を合わせ、墓を離れた。


写真:日本人の墓

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