蔣作賓との交渉
満洲事変勃発後の近衞が、当初は不拡大方針を指示していたが、後には積極肯定論に傾いていったことはすでに述べたところである。その一方でこの間の近衞は、日中の和平に向けて側面支援を行っていた事実がある。近衞は1946年に書いた『平和への努力』の中で、当時の行動について述べている。以下、主にそれに従って見ていくことにする。
近衞は1931年に病気がちとなり、翌年1月から鎌倉の別荘で療養生活を送っていたことがある。その頃、中国の駐日公使である蔣作賓と知り合っていた。彼もやはり高血圧を患って当地で静養していたのである。そして、蔣の秘書役だった参事官の丁紹仭は近衞の一高時代に同じ寮に住んでいたという縁もあって、二人は連れ立って近衞を訪ねて来るようになっていた。
蔣作賓は蔣介石直系の外交官で、駐ドイツ・オーストリア公使を務めていたが、1931年8月から日本に赴任していた。その直後に勃発した満洲事変に際して、彼は強硬路線を主張したが、蔣介石はこれを望まず抑制的な対応を採るところとなっていた。当時、蔣作賓は日中交渉の開始を求めて、すでに日本の政治・軍事関係者への働きかけを図っており、近衞との接触はその一環だったものと思われる。
蔣作賓は近衞に向かって、このままで行けば日中間の衝突は世界戦争にまで発展する可能性があると述べ、日本は蔣介石と交渉すべきだと論じた。蔣を中国の中心勢力と認めさえすれば、日本にとって今ほど対中国外交のやりやすい時機はないと言うのである。そして、軍閥勢力を互いに牽制させて中国の統一を妨げ、分割統治をしようとする日本軍部の方針は根本的に誤っているとも述べた。
蔣作賓によれば、戦争が長引けば英米は蔣介石に味方をするだろうし、そうなれば英米を利するばかりで日中は共倒れになるかもしれない。今のうちに大局に目を配り、蔣介石と提携して大アジア問題を処理すべきではないか。これが孫文以来の理想だと言うのである。近衞は蔣作賓の説に同感の意を表した。彼は「大アジア」という父・篤麿の遺志にも通じる言葉に、心を惹かれるものがあったのかもしれない。
蔣作賓の具体的な要求は、日本政府に満洲国の承認を思いとどまらせることであった。だが、日本にとってそれは受け入れ難いことだった。そこで1932年8月、近衞は蔣作賓を訪ねて、「満洲国を承認することは既定の事実であるから、これは已むを得ない。寧ろこれは諦めて、他に何か貴国の希望するところを交換問題として外務大臣に持ち出したらどうか」と提案した。しかし蔣は、満洲国の承認が決まっているのなら何も言うことはないと、取り付く島もない態度だったという(「西園寺公と政局」)。
蔣作賓は1935年7月に一旦帰国した。彼は前年から独自に日中和平案を検討しており、それを本国に持ち帰り蔣介石と相談のうえ具体案を作ってくるということだった。蔣作賓は重慶の蔣介石を訪ねて和平条件を練り、できあがった案を丁紹仭に持たせて日本に派遣した。丁は日本に着くと早速軽井沢に近衞を訪ね、以下のような案を提示した。
①満洲問題は当分の間は不問に付する。
②日中の関係を平等の基礎の上に置く。その結果としてあらゆる不平等条約を撤廃する。但し、満洲に関係のある不平等条約は除外しない。また排日教育は防止する。
③日中の平等原則が認められた後に、経済提携を協議する。
④経済提携の成果を見たうえで、軍事協定を結ぶ。
近衞はこの案に賛成であったため、丁紹仭に十分に努力すると約束した。そして、広田外相に事情を話して問題解決に努めるように要望した。広田も外務省も賛成の意向だったが、軍部からは反対の声が上がった。すなわち、①の「不問に付する」という表現が気に入らず、「承認する」に改めよという意見が出されたのである。結局、この和平案は実現の可能性がないということで丁紹仭は帰国することとなった。最終的に、近衞の周旋した和平案は失敗に終わったが、彼がこの段階で中国政府との関係改善に乗り出していたことは注目に値するであろう。
日中関係の危機の中で
日本による華北分離工作の推進、そしてそれに伴う中国における抗日事件が頻発する中、日中関係は悪化の一途をたどり、1936年12月の西安事件を契機として危機状況はさらに深まった。近衞は同じ頃、牧野伸顕に代わり東亜同文会会長となっていたが、彼はそうした状況の中でいかなる中国観を示していたのだろうか。
近衞は論説「東亜の危機に際して日支両国の識者に望む」(『支那』1937年1月号)において、前年11月に発生した関東軍と抗日軍の衝突事件(綏遠事件)によって激化した抗日運動と、日独防共協定に対する中国の強い反発を「東亜の危機」と捉える。しかし、こうした状況にあっても、日本と中国は「二千年の厚情豊かなる隣邦であり、現在及び招来に亘り東亜における安定力、推進力の枢軸として、将又アジア民族の先駆者として、倶に手を取り合って進まなくてはならない間柄である」とする。
そうした関係であるために、まず必要とされることは経済提携である。近衞によれば、提携とは決して一方が他方に犠牲を強いるものではない。すなわち、日本人は日本を愛し、中国人は中国人を愛するが故に、共に握手するとことに真の提携が存在するのだという。そして、日本を愛し、中国を愛する心はやがてアジアを愛する心へと高まって行き、平等互恵の先にアジアの繁栄が到来すると言うのである。
経済提携は日中双方を利するものでなければならない。具体的には、中国の無尽蔵の天然資源を、日本側は資本・技術を提供することで、中国の労働力と協同してその開発に当たれば、両国の利益はもちろん、友情もまたこれに比例して自ずからその濃度を増していくことだろうとされる。そして、日本が望むことは国際的相互扶助にあり、漫然と「天賦の資源を放置して顧みないといふのは、天に対する冒涜とも言い得るが、日本は友誼の発露として開発をなさんとする」のだと言うのである。
以上のような「経済提携」の主張は、平等互恵の強調およびアジア主義的言辞によって美化されてはいるが、実際にそこで主張されているのは日本の一方的な経済進出の主張であり、当時日本によって進められていた華北分離工作を正当化するものでもあった。
近衞は日中関係の悪化の原因の1つにコミンテルンの影響があるとしている。彼は次のように言う。「人民戦線といふが如きコミンテルンの策動に乗ぜられて事を構ふることあらんか、これ自ら好んで極東の禍乱を招来せんとするものにほかならない」。共産主義勢力のアジアへの拡大を阻止するためにも、日中の提携は必要であるとされたのである。
「善隣友好」を説くが…
1937年元旦に発表した論説「我が政治外交の指標」(『東京朝日新聞』)では、内政の刷新との関連で対中国外交が論じられている。近衞によれば、政治運用の態様の中に直接国民生活が反映されないならば、その政治は決して国運を伸長し、国民生活の安定を確立することにはならないとされる。すなわち、政治を明朗化し立憲的であらしめるためには、その政治は国民生活を直接的に反映するものでなければならないのである。そして、非常時を克服するには、こうした基礎の上に挙国一致、あらゆる勢力を渾然融合させた集団をして施政の任に当たらせる以外に方法はないとされた。このような内政の刷新があって、外交も国民の生活と精神に刺激と影響を与え得ると言うのである。
日本の対中国外交のあり方については、前記「東亜の危機に際して日支両国の識者に望む」とほぼ同樣の主張である。近衞は、中国の識者の大半は先の論説の趣旨に同意するだろうとする。しかし、中国には「理議明白なる理論」や正論を吹き飛ばしてしまうような対日世論、すなわち「打倒日本」という国民的感情が存在するのだという。こうした傾向を変え、両国の提携を実現するには国民外交が必要とされる。それは今日まで微々たる成果しか挙げていないが、日中の「国民的楔子」たる東亜同文会などの民間団体の活動にかかっていると指摘する。
近衞は西安事件以後の中国の対日感情は益々悪化すると見ている。南京政府は国民の輿望を維持するためには、抗日政策を維持しなければならないからである。こうした姿勢が続くと、ソ連やコミンテルンが介入するところとなり、華北における日本の立場さらには満洲も危険な状態に陥るかもしれない。かかる情勢に対処するには、日本は中国と共に赤化防止を決行する以外にない。これこそ、「東亜の安定勢力たる所以であり、また、東亜の平和を確保し、人類の福祉を増進する日本の使命である」とされたのである。
そして、中国の朝野が日本を仇敵視して欧米依存に終止するならば、やがて東亜の禍乱を招くこととなり、永遠に白人種によって侮蔑されるだろうとし、「善隣友好の人士が東洋人の本然に立ち還り我等と倶に往かんことを冀望する」と述べている。また日本人に対しては、中国の朝野を速やかに反省熟慮させ、大過なからしむるために、国民的準備に着手する必要があるとしたのである。
この論説を読んだ西園寺公望は、大変良くできていると評価した(『西園寺公と政局』)。また、原稿の素案を書いたという宇治田直義によれば、この論説に対する内外の評判はかなり良好であったが、軍人の間では極めて平和的だとして反対する者もあったという(『支那問題ひとすじに放浪五十年』)。然るに、中国からの反応には厳しいものがあった。雑誌『支那』1937年2月号に掲載された「近衞公の所論に対する支那各方面の反響」では、中国のマスコミの反応が紹介されている。
それによれば、『天津益世報』は過去の日本の対中国政策の根本的な誤りは、中国人の愛国心を踏みにじった点にあるとする。中国人が満洲事変を契機に愛国心を高め、排日を訴えることは当然のことであり、こうした事実に対して日本人が何ら認識することもなく、逆に親善合作を高唱することは「人間社会に於ける人情に触れざるもの、これより甚だしきはなし」と批判している。また『武漢日報』は、近衞が言うように各々が祖国を愛する立場に立って合作することは結構なことだが、相手の国民がその国を愛することを妨害してはならないと述べている。いずれも、近衞が中国人のナショナリズムを全く理解していないことを指摘したものであり、妥当な批判ということができるだろう。