第9回 近衞文麿とその周辺 嵯峨隆
国策・国論統一の主張
1933年6月9日、近衞は貴族院議長に就任した。前日の徳川家達の辞任表明を受けてのことであり、親子二代にわたる就任となった。副議長には、近衞の意を受けて松平頼寿を当てることになった。
この年の中半以降、近衞は数編の論説を発表している。雑誌『日の出』7月号に掲載された「当代の人物を語る」は、主に寺内正毅ら数名の人物を論じたものであるが、国策統一の必要性についても論じている。
近衞によれば、国策なるものは政治家が立てるものであって、軍部はそれに基き国防を考えるというのが本来の姿である。しかし、今日の日本の政党政治家は党利党略に没頭して国策を顧みる暇もない有り様であるため、具体的プランを持つ軍部がそれを代行し、政治家がそれに引っ張られている状態にある。だが、軍人本位の政治は決して本来の姿とは言えない。しかも、今後の日本は列強諸国を相手に自主外交を進める必要があり、自国の主張を貫くためには統一した国策がなければならない。そのためには政治の本来の姿に立ち返り、政治家が政治の中心となって国策を打ち立てよと言うのである。
同じく『日の出』10月号には「国民精神の目醒め」を発表した。この論説は、国論を統一させる手段として国粋教育の必要性を説いたものである。近衞は日本で左翼思想や国際主義が一時流行したのは、世界各国についての知識を重んじて歴史教育を疎かにしたためだと指摘する。しかも、日本の歴史教育は単に事実を教えるだけであって、「祖先の血肉に分け入り、その魂を掴む」ような教え方をしていない。こうしたことでは、日本民族の由来、民族精神を真の我がものとして理解することはできないと言う。近衞がこのように主張するのは、「3年の後の1936年には、前古未曾有の国難が来る」と考えたからである。
当時、「1936年危機説」が喧伝されていた。それは、来る35年に日本の国際連盟脱退が正式に発効することで、委任統治領である南洋諸島返還の要求が予想されること、さらに同年末に控える第二次ロンドン海軍軍縮会議で満洲問題などが持ち出され、英米からの圧力が高まると予想されることなどを日本の危機と捉えたものである。こうしたことを主張する団体に三六倶楽部があった。これは、近衞が1919年にフランスで知り合った小林順一郎が主宰する団体である。小林は24年に陸軍を退役した後、33年に志賀直方、井田石楠らと右翼団体・三六倶楽部を結成していた。
近衞は12月、三六倶楽部の機関誌『1936:次代工作のパイロット』に短編の論説「一九三六年を前にする皇国の原状」を発表している。近衞はここで、世界の情勢が経済的に帝国主義化していく中で、日本は東亜諸民族の平和と世界の安寧のために満洲国の独立を承認し、今後もその発展を援助する義務を負っていると述べる。しかるに、国内の政治状況は混迷を極めている。近衞はこうした原状を踏まえて、「一日も速に皇国日本の国是の大本に基礎を置いて、内政に外交に国防に断固不動の国策を樹立し、国民挙つて協力一致し、堅忍不抜の精神を以て」その改革に努力しなければならないと主張した。
この論説は当時の近衞の主張を簡潔にまとめたものだが、これを発表したことで小林との関係が周囲の関心を惹くところとなった。原田熊雄によれば、秩父宮は「近衞は小林順一郎の雑誌に書いているが、まさか小林に担がれてゐることはあるまいな」と述べている(『西園寺公と政局』)。近衞と右翼との接近を懸念しての発言である。これに対して原田は否定的に答えているが、小林が近衞に寄稿を依頼したのは、「近衞担ぎ出し」を狙ったものとも言われ(五明祐貴人「天皇機関説排撃運動の一断面」)、秩父宮の疑念はある程度当っていたと言えるかも知れない。
アメリカ訪問―日米間の溝を認識
1934年2月、近衞はアメリカ訪問を計画した。アメリカ留学中の長男・文隆の高校卒業式に列席するという名目であった。文隆は31年4月に渡米し、ニュージャージー州にあるローレンスヴィル・スクールに入学しており、この時すでにプリンストン大学入学が決定していた。
政府も近衞の訪米には賛成の姿勢を示し、総理・外相とも「アメリカでは大統領始め相当な人達に充分話して来てもらひたい」と述べていた。当時、斎藤内閣の退陣説が出ており、近衞は後任候補の一人と目されていた。そうした状況であっても、西園寺は「この際は寧ろアメリカに旅行でもして、外から見た我が国の現状を研究して来ることが更に本人のためになり、また将来御奉公するためにも必要ぢゃないか」と述べており、これを聞いた近衞は渡米の決意を固めるに至ったのである(『西園寺公と政局』)。
近衞の渡米が決まると、マスコミは彼の子供への教育について取り上げるようになった。なぜ日本で教育を受けさせないのかという質問に、近衞は次のように答えている。
「よく僕のところへ遊びに来る右翼の人や軍人たちは、どうもあなたが御子息をアメリカで教育される気持ちがわからんといふんですが、さういふ時はかういつてやるんです、日本精神を涵養するには外国の方がいゝんだ、日本の大学はどつちかといへば日本精神をなくすなすが、外国にゐれば日の丸の旗の有難さも祖国愛といつたものもかへつてはつきり認識させるとね」(「公爵様は子煩悩」『朝日新聞』1934年4月21日)。





