第358回 「ホーチミンルート」取材の思い出(上) 直井謙二

第358回 「ホーチミンルート」取材の思い出(上)
久しぶりにベトナムを訪ね、23年ほど前ベトナム戦争当時の軍事秘密ルート「ホーチミンルート」に関するドキュメンタリーを制作したことを思い出した。当時、ハリウッド映画は「プラトーン」、「7月4日に生まれて」など大義のない戦争に駆り出され同僚の死などに苦しむ米兵の姿を描いた映画がヒットしていた。アメリカではベトナムからの帰還兵の戦闘による肉体的な損傷やPTSDが大きな社会問題になっていた。
ベトナム戦争に負ければベトナムばかりでなく近隣諸国まで共産主義化するという「ドミノ理論」のもと多くのアメリカの若者が戦場に駆り出された。すぐにでも勝利を得て帰国できると思っていた兵士が多かったようだが、ベトナムの抵抗は想像をはるかに超えていた。ワシントンでは10万人を超す反戦デモが繰り広げられ、ジョンソン元大統領が失脚するなど政治的混乱が続く中、遠く離れたベトナムで傷つくアメリカ兵。映画は戦場のアメリカ兵の苦しみを見事に表現していた。
一方で倒れても後から後から現れるベトナム解放軍の兵士はまるでロボットように描かれ、戦禍に苦しむベトナム農民などは無力で哀れな姿にしか描かれていなかった。映画を見るたびに戦争に苦しんだのはアメリカ兵よりはむしろベトナム人ではないかと疑問を感じていた。
ベトナム戦争中に使用された総爆薬量は第2次世界大戦に世界で使用された量の2倍だという。その結果、アメリカ兵の戦死者はおよそ6万人に対し、ベトナムは南北の兵士と民間人を含めるとおよそ30倍の170万人が死亡したと言われている。(写真)

ベトナム兵や民間人もベトナム戦争に傷つき悩み、北ベトナム軍も自信を失った時もあったはずだ。ただベトナム政府は軍の機密として長い間ホーチミンルートの取材や記録映画の公開を拒否していた。ベトナムとしては依然圧倒的な戦力を保持するアメリカが取材や記録映画の公開によってベトナム側の戦略を読み取り再び戦争を仕掛けてくる懸念があったと思われる。ベトナムの協力がなければベトナム側から見た戦争など描くことはできない。
80年代末の東西冷戦構造の崩壊で世界情勢が変わり、ベトナムも戦争を歴史としてとらえることができるようになった。冷戦構造崩壊直後の90年代の始めベトナム政府は戦争記録映画の公開とホーチミンルートの取材許可を初めて出した。ベトナムから見たベトナム戦争を制作するチャンスがやっと来たのだ。
写真1:ベトナム戦争の慰霊碑
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