第345回 たくましい欧米のバックパッカー 伊藤努

第345回 たくましい欧米のバックパッカー
昨年11月半ば、ベトナムの中部ダナンと南部のホーチミン市(旧サイゴン)を駆け足で回ってきたが、世界文化遺産がある中部の古都フエや日本人町があったホイアン、さらにホーチミン市に行く際に利用した南北統一鉄道の寝台車などの各地で欧米のバックパッカー姿の男女グループによく出会った。暑いベトナムで、Tシャツ・短パン姿の外国人観光客の若さはまぶしく映る。成田からダナンに直行するベトナム航空機便には、日本の若い女性らが大勢乗っていたが、こうした日本人観光客には訪問の先々でほとんど会うことはなかった。
日本人の若い女性はどこに消えてしまったのか。その点については後で触れるが、欧米人バックパッカーの一行をたくましいと思ったのは、いかにも重そうなリュックサックを背負っての旅をしているだけでなく、客室の寝台ベッドが3段のつくりで非常に狭く、足を伸ばしたり、背伸びをしたりするのも困難な狭い空間に不満を口にすることもなく、その場に溶け込む術(すべ)を心得ていることだった。

ベトナム中部の古都フエの王宮 (筆者撮影)
筆者が昔、欧州に駐在していたころ、「インターシティー」と呼ばれる快適な特急列車を仕事などでよく利用したものだが、日本と同様、そうした先進的な交通システムと比べると、ディーゼル機関車がけん引するベトナム国鉄の寝台車両は何とも時代遅れの代物に見える。無いものねだりをするつもりはないが、北の首都ハノイから南のホーチミン市まで34時間かけて走る大動脈の南北統一列車には食堂車もなければ、日中にゆっくりとくつろげる客室も整備されていない。寝台車両のコンパートメント(仕切られた客室)のベッドが2段仕様なら4人だが、3段仕様だと6人となり、狭い客室には居場所もなくなる。
また、多くの乗客が利用する客車ごとのトイレも決して清潔とは言えず、そうしたことに潔癖なタイプの日本人ならトイレを使うのを我慢するかもしれない。旅、それも外国の途上国への旅行をする人間はそうした不便さはすべて覚悟の上で、その違い、文化の違いなどを楽しむ心の準備ができているのだろう。
ホーチミン市近郊にあるベトナム戦争時に南ベトナムの解放民族勢力の軍事拠点だったクチの地下トンネル施設を訪れたときも、大勢いた来園者の大半は欧米からの観光客だった。一種の軍事的なテーマパークとなっているクチの施設を地元ガイドの案内で回っているとき、カナダとアイルランドから来たという若者2人は大男がやっと入れる入り口から穴倉のような狭い地下トンネルに潜り込み、入り組んだ穴倉を移動して、数十メートル離れた別の入り口・出口から出てきた。筆者もこの2人に続こうと思ったが、暗い穴倉の途中で1メートルも下に飛び降りる必要があると聞き、地下トンネルの移動・通過を断念した。
御朱印船がアジア各地を巡っていた16世紀後半、日本人町があった世界文化遺産に指定のホイアンにも欧米諸国からやって来たと思われる大勢の老若男女が外国語のガイドブックを片手に昔ながらの狭い街路や川のほとりを散策していた。小さな町の飲食店は、欧米人観光客がくつろげるようなカフェーやレストランに模様替えし、結構はやっているようだった。日本人にゆかりのあるホイアンでも日本人観光客はあまり見掛けなかった。
さて、行きのベトナム航空機に同乗していた若い日本人女性たちはどこに行ったのか。ダナン周辺の海浜リゾートには、美しいプライベートビーチや美容のためのエステ・サービスが充実した高級ホテルが林立し、彼女らはそこにずっと滞在し、リラックスタイムを過ごしながら、エステに余念がないのだそうだ。日本の旅行代理店の「ベトナムの旅PR」はその点を売り物にしており、日本人の外国旅行の仕方も世代が移る中で大きく変わっていることを改めて知った。