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第559回 アフガンの「現地協力者」で思い出したこと 伊藤努

第559回 アフガンの「現地協力者」で思い出したこと 伊藤努

第559回 アフガンの「現地協力者」で思い出したこと

今年8月半ばにイスラム主義勢力タリバンが実権を掌握したアフガニスタンから国外脱出を図ろうとする市民が絶えないことを伝える報道に、「現地協力者」という言葉が頻繁に出てきたことは読者の皆さんもよくご存知のことだろう。普段はあまり聞かない用語だが、米国をはじめとする北大西洋条約機構(NATO)加盟諸国などが20年に及んだアフガン軍事介入で、通訳や運転手などとして現地に駐留する各国軍部隊の活動を支援したアフガンの人たちだ。

アフガンに駐留する大多数の外国軍部隊の将兵にとって、南アジアの一角に位置する同国は言葉や文化、宗教、生活習慣も全く違う異郷の地であり、前線地帯でタリバンの戦闘員と戦う兵士にとって、通訳などの現地協力者は作戦任務を遂行する上で「命綱」とも言える存在だ。敵の奇襲攻撃や道路に埋められた路肩爆弾など、常の生命の危険と背中合わせで互いに日々活動する中で、同志として信頼感も強まり、仲間意識が深まるのは自然の流れだろう。

今回のタリバンによる武力制圧は一種の政変だが、世界各地で起きているクーデターなどによる政権転覆劇では、政変が起きた国から市民が相次いで国外脱出を試みるケースは比較的少ない。ただ、歴史をひもとくと、1960年代から70年代にかけてのベトナム戦争で当時の北ベトナムが南ベトナムの首都サイゴンを陥落させ、「北」主導の統一政策に反発した「南」の大勢の中国系住民(華僑)が社会主義の統治を嫌ってボートピープルなどとして国外脱出を図ったほか、この時期と前後して、ベトナムの隣国カンボジアで原始共産制を目指した赤色クメール(ポル・ポト派)の恐怖支配を恐れた市民が難民としてタイなどの隣国に大量に流出したことが想起される。

1970年代半ばのベトナムの南北統一やカンボジアでのポル・ポト派の首都制圧といったインドシナ半島激動の時代に報道の世界に足を踏み入れた筆者にとって、この両国におけるいわゆるインドシナ難民の大量流出と今回のアフガン政変に伴う現地協力者の国外退避とは若干、背景や性格もやや異なるように思われるのである。

米国など外国駐留軍を「占領軍」と見なし、その全面撤退を求めて戦ったタリバンにすれば、駐留米軍の通訳などは「敵の協力者」でもある。アフガン国内で恐らく数万人規模、あるいは数十万人にも上る可能性のあるこうした現地協力者がタリバンの復権とともに、積年の報復を晴らすべく自らや家族に危害が加えるとして、国外脱出を望むのも当然だろう。

米国にとって史上最長とされたアフガン戦争に限らず、米国などが軍事介入した地域紛争でも同様の現地協力者はいたはずだが、今回のアフガン情勢急転後の一連の報道で現地協力者の存在が大きくクローズアップされたのは、アフガン戦争の規模の大きさ、その長期化に伴い、現地協力者が駐留した多くの国々にまたがり、桁違いに多くなったためにほかなるまい。加えて、タリバンというイスラム原理主義勢力が敵対者への報復を辞さないという宗教思想に固執していることもある。

この現地協力者の報道をめぐって思い起こしたのは、戦争といった極限状況下のことにとどまらず、筆者などが現役時代に属していた報道の世界でも、現地協力者の助けがあればこそ、現地発の正確な情報を発信できたという思いだ。1990年代後半にタイの首都バンコクを拠点にして、同国を含むインドシナ半島諸国をカバーした際、それぞれのカバーエリアの国でお世話になった助手たち、すなわち現地協力者の何人かの顔が思い浮かぶ。今年2月に国軍によるクーデターで民主化勢力の指導者や市民が厳しい弾圧を受けているミャンマーでは、自由な報道も風前の灯となりつつあり、知り合いの地元ジャーナリストたちは多くの市民と同様に、過酷な日々を過ごしているに違いない。

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