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〔36〕大連経由と朝鮮経由の大陸旅行者誘致競争 小牟田哲彦(作家)

〔36〕大連経由と朝鮮経由の大陸旅行者誘致競争 小牟田哲彦(作家)

〔36〕大連経由と朝鮮経由の大陸旅行者誘致競争

日露戦争の勝利によって日本が中国大陸に獲得した権益の一つである南満洲鉄道(満鉄)は、単に満洲という地域内の交通手段として発達しただけでなく、日本列島から満洲を目指す旅行者や、満洲からさらにシベリア鉄道経由でヨーロッパ方面へと向かう旅行者の誘致に力を入れていた。満鉄は日本列島内の国有鉄道(鉄道院、鉄道省の管理路線。戦後の日本国有鉄道、現在のJRグループ)と旅客営業上の連絡運輸を実施していて、直通乗車券が購入できたことは、本連載の第2回「日本と大陸の直通乗車券は本当に『1枚のきっぷ』だった」で紹介した通りである。

航空路線が未発達だった当時、日本国内から満洲へ渡るルートは主に2つあった。大阪や神戸、あるいは門司から遼東半島の先端に位置する大連まで船で渡り、そこから満鉄に載って満洲各地へ向かうコースと、下関から朝鮮半島南端の釜山まで船で渡り、そこから朝鮮半島を縦断する直通路線を北上し、鴨緑江を渡って満鉄に乗り入れるコースである。

昭和初期に刊行されていた市販の時刻表には、日本と満洲の間を列車と船で乗り継ぐための連絡時刻表が掲載されているページがあった。そこには「大連經由」「朝鮮經由」という表示があり、旅客は両コースを比較しながらスケジュールを組むことができた。

所要時間が短かったのは朝鮮コースである。『鉄道省編纂 汽車時間表』の昭和9(1934)年12月号によれば、東京駅を午後3時に出発する特急「富士」に乗れば、朝鮮コースで翌々日の午後9時に満洲国の首都・新京(長春)に到達できた。一方、大連コースだと神戸から大連への大阪商船が3泊4日かかることから、新京到着は5日目の午後10時30分だった。

ところが、これだけ所要時間に違いがあるのに、大連コースは安定した人気を保っていた。船は時間はかかるけれども、大連港に着くまで船内でのんびりくつろげるのが大きなメリットだったらしい。大型客船の内部は広々としていて、入浴もできる。船内の食堂では1等客には洋食、2・3等客には和食が供され、優雅な船旅が楽しめた。大連港から大連駅までは無料の連絡バスが運行され、旅客の便宜が図られていた。大連に本社を置く満鉄が大連集中主義と呼ばれる経営方針を採用し、大連コースでの貨客の流れを重視していたことも影響していたと思われる。

これに対して、朝鮮コースの利便性や運行列車の質の向上には、朝鮮半島の官設鉄道である朝鮮総督府鉄道局(鮮鉄)が力を注いだ。満洲方面へ直通する国際急行はすべて、市街地にある釜山駅ではなく、下関からの連絡船が発着する釜山桟橋を起終点として、連絡船からすぐに列車に乗り換えられるようになっていた。「満洲へは朝鮮経由で」というリーフレット(画像参照)を発行して、内地よりも線路の幅が広くゆったりとしている汽車旅の快適さをアピールした。

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満洲への旅行者を朝鮮半島コースに誘致する鮮鉄発行のパンフレット

満洲へのコースが2通り存在することから、往路は大連経由、復路は朝鮮経由というように往復でルートを変えて、壮大な周遊ルートを組むこともできた。そういう周遊旅行のための割引乗車券も販売されていたし、旅行ガイドブックにもそうしたモデルコースが紹介されていた。現代の航空便の便利さにはもちろんかなわないけれども、変化に富んだ旅程を長期にわたって楽しめたであろう当時の日本から満洲方面への旅行ルートには、いろいろと羨ましさを感じる点が多い。


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