第18回 近衞文麿とその周辺 嵯峨隆
第2次近衞内閣の成立
組閣までの過程
近衞が軽井沢に滞在している時期、陸軍内部には米内内閣に替えて近衞を擁立しようという気運が高まってきた。1940年7月4日、陸軍は畑陸相に辞表を出させ、後任を出さないという姿勢を取ったため、同月16日に米内内閣は総辞職した。翌日、6人の総理大臣経験者による後継内閣首班選定の会議が開かれた。ここで、近衞を除く全員が近衞を後継に推したが、当人は「此の際時局を担当する者は軍の事情に精通し、充分諒解のあるものならざるべからず。自分は其の力もなく、又準備もない」として辞退したい旨を述べた(木戸日記)。
この会議の後、木戸は松平康昌内大臣秘書官長を興津に行かせて西園寺の意見を求めたが、西園寺は自分は体調不良である上、最近の政界の事情に疎いとして返答を拒んでいる。しかし実際には、西園寺は「今頃、人気で政治をやらうなんて、そんな時代遅れな考ぢやあ駄目だね」と述べており、近衞を推薦することには賛成ではなかった。結局、木戸は近衞を後継首班に奏薦し、天皇から近衞に大命が下った。
組閣に当たって、近衞はまず陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣の各候補者を選定し、自身を加えた四者の協議を行い、「国防、外交、陸海軍の協調、統帥と政治の関係等を充分協議し、一致を見るに至りたる後、始めて他閣僚の銓衡に入る」とした(木戸幸一日記)。すると18日、海軍から吉田善吾の留任を、陸軍からは東条英機を推薦してきた。近衞は外相に松岡洋右を選んだ。周囲には松岡の起用を危ぶむ声もあったが、陸軍を相手にこれを抑えていくには、「松岡の心臓と、気力と、詭弁的能弁と、端倪すべからざる術策」が必要だと考えたと言われている(矢部)。
19日、近衞は荻窪の自宅で東条、吉田、松岡との四者会談を行った。そこでは、内閣の基本方針として、日独伊の連携を強化し、ソ連とは国境不可侵協定を結ぶこと、英・仏・オランダ等の植民地を東亜新秩序(後の大東亜共栄圏)に含めるため積極的な処理を行うこと、米国との無用な摩擦は避けるが、東亜新秩序建設に関する限り、米国の実力干渉は排除することを定めた。その後、本格的に組閣が進められ、閣僚は以下のとおりに決定された。
総理大臣 近衛文麿、外務大臣 松岡洋右、内務大臣 安井英二、大蔵大臣 河田烈、陸軍大臣 東条英機、海軍大臣 吉田善吾、司法大臣 風見章、文部大臣 橋田邦彦、農林大臣 石黒忠篤、商工大臣 小林一三、逓信大臣 村田省蔵、鉄道大臣 村田省蔵(兼任)、拓殖大臣 松岡洋右(兼任)、厚生大臣 安井英二(兼任)、無任所大臣 星野直樹、内閣書記官長 富田健治、法制局長官 村瀬直養
そして、7月22日午後8時、近衞首相の親任式が行われ、続いて9時に閣僚の親任式があり、ここに第二次近衞内閣は成立することになったのである。
23日、近衞は記者会見を行い、当面の政策としては国防の充実に第一の重点を置くとし、一方においては外交面での刷新を図るとした。南方政策については大いに考慮するとし、日中関係は東亜新秩序声明を基とすると述べた。新体制についてはまだ具体案を持ってはいないとしながらも、一国一党という考えには否定的な姿勢を示す一方で、ある有力な政党が誕生してその指導者に大命が下ることはあり得るとした。また、選挙法改正は新体制と不可分の問題なので是非やりたいとし、経済体制については自主的な統制が望ましいとしつつも、必要とあらば強権の発動も止むを得ないと述べている(「近衞首相 方針を明示」、『東京朝日新聞』7月24日)。
同日夜、近衞はラジオ放送で「大命を拝して」と題する講演を行った。ここで近衞は、従来の政党政治が自由主義、民主主義あるいは社会主義を取り、世界観、人生観において我国の国体と相容れないものであること、そして党派結成の主目的が政権の争奪にあるとして、この2つの弊害を去って「日本の本当の姿に立ち帰り、大御心を仰いで一億一心、真実の御奉公を期しなければならない」とした。その上で今後の方針として、外交面では単に世界的変局に対応するというだけでなく、自から世界的変化を指導して新秩序を作り上げる覚悟が必要であり、経済面では外交国策の実現のために対外依存の傾向からの脱却が求められるとした。最後に教育面では、「皇国民の錬成を魂の根本に於いて実現して行かなければならない」とした。
総じて見るに、この演説は政党政治と決別し、新たな国際秩序秩序を作り出すべく奮闘する日本を支えるために、国民に団結して協力するよう呼掛けたものであった。当日、この放送を聞いた西園寺は、「声はいゝし言ふことは大体判るが、内容は実にパラドックスに充ちてゐたやうに思ふ。なんだか自分にはちつとも判らなかつた。うまくやつてくればいゝけれども……」と述べている(『西園寺公と政局』)。西園寺の言葉からは、近衞への愛情を示しつつも、自身との溝の広まりに如何ともしがたい思いを感じさせるものがある。
第二次近衞内閣の諸政策
1940年7月26日、近衞内閣は「基本国策要綱」を決定した(発表は8月1日)。その前文では、「数個の国家群の生成発展を基調とする政治経済文化の創成」の時に当たり、皇国の国是を完遂するためには「庶政百般に亘り速に根本的刷新を加へ」ることが喫緊の要務であるとする。そして根本方針としては、八紘一宇を国是とする日本を核心として、「日満支の強固なる結合を根幹とする大東亜の新秩序建設する」ことだとした。
「八紘一宇」という言葉は第一次内閣の当時から使われていたが、ここで初めて「大東亜の新秩序」に結びつけられたのである。「基本国策要綱」が発表された同じ日、松岡外相は記者会見で「日満支を一環とする大東亜共栄圏の確立をはかる」と表明し、共栄圏には仏印と蘭印が含まれる事を明確にした(「大東亜共栄圏を確立」、『東京朝日新聞』1940年8月2日)。「大東亜新秩序」はここに面目を新たにしたと言える。この後、大東亜共栄圏という言葉は「八紘一宇」と並び広く世間で用いられるようになる。
7月27日、大本営政府連絡会議は「世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱」を決定した。これは米内内閣の末期から協議されていたものであるが、その主旨は重慶政権を速やかに屈服させて南方進出を図り、その際には独伊との政治的結束を強化するとし、アメリカに対しては公正なる主張と厳然たる態度を取ることで、ある程度の関係悪化はやむを得ないとしつつも、積極的な摩擦の増大は避けることとした。また、南方進出に当っては、戦争相手は極力イギリスに限定すべきであるが、アメリカとの開戦にも備えなければならないとしている。
第二次近衞内閣は外交面で大きな転換を行った。当時、日本の対英米関係は悪化の一途をたどっていた。アメリカは対日輸出の制限の措置を取り、7月には石油と屑鉄の輸出統制を決定していた。9月に日本軍が仏印に進駐すると、アメリカは報復の意を込めて中国に借款を与え、日本には屑鉄および鉄鋼の禁輸措置を取った。他方、ヨーロッパで快進撃を続けたドイツ軍は、イギリス本土上陸作戦を計画するも実行に移せず、しかもアメリカの対英軍事援助が増大する中、ソ連との関係も前途が微妙となっていた。こうした情勢において、ドイツは日本との同盟を求めるようになった。
ドイツとの提携に熱心だったのは、対米外交に不信を抱く松岡外相であった。9月7日、ドイツから特使としてスターマーが来日し、松岡との交渉をはじめた。9日、10日の会談において、スターマーはヨーロッパ戦線へのアメリカ参戦を阻止すべく同盟締結を提案し、松岡も日本の南方進出の際の対英米牽制の点からこれに同意した。当初、海軍は独伊とアメリカの戦争に巻き込まれる可能性があるとして反対したが、開戦があっても日本の自動参戦はないとされたため賛成に回った。そして、13日の四相会議、14日の大本営政府連絡会議、16日の閣議を経て同盟締結の方針は定まった。
さて近衞はといえば、彼は同盟締結については基本的に賛成の立場であった。それは、ドイツが日ソ間の不可侵条約成立に向けて仲介の意があること、そして日中戦争収拾のためにも力を貸してくれるだろうというのが理由だった。だが、近衞がドイツの最終的勝利を確信していたかどうかは疑わしい。そのことは、近衞が富田健治に対して、「今は調子よく行っているが、結局ドイツは最後に、又第一次大戦の二の舞をやるのじゃないかね」と何度も言っていたことからも窺える(『敗戦日本の裏側』)。
9月19日の御前会議において三国同盟条約が議題となった。ここでは、同盟の結成により日米間系がいっそう悪化し、物資不足から国力維持に不安が生じるのではないかとの意見が出された。これに対して近衞は、「我国の現状においては主要なる軍需資材を英米に待つこと多く、したがって相当の困難は免れざるべし」としながらも、軍官民の消費統制をさらに強化して最も重要な方面に集中させれば、長期にわたって軍需には支障がなく、日米戦争となっても長期戦に堪え得るとの楽観論を示していた(大江志乃夫『御前会議』)。結局、会議では松岡らの意見が通り同盟案は可決された。
9月27日、東京の外務大臣官邸とベルリンの総統官邸で調印が行われ、日独伊三国同盟は成立した。翌28日、近衞はラジオ放送で「重大事局に直面して」と題する講演を行った。ここで近衞は、日中戦争は世界旧体制の重圧の下に発生したものであるとし、その解決には「世界旧秩序の根柢に横たはる矛盾に一大斧鉞を加ふること」が必要であるため、日本は東アジアひいては世界の新秩序建設に向けて、ヨーロッパで同樣の戦いを行っている独伊と軍事同盟を作る必要があるとした。
そして、日本は今や有史以来の国難に直面しているとする。このような状況において、政府は挙国新体制を確立すべく努力しているが、その実現のためには「全国民が結束して眼前の難関を突破せねばならず、そこには分派対立の余裕も、自由討論の余地もなく、一身の生活と享楽は同胞のために、個人の栄誉と利益は君国のために、安んじて犠牲に供されねばならぬ」と述べた。その上で近衞は、「日本国家は非常時に際し、一人の暖衣飽食を許さず、また一人と雖も飢ゑに悩む者あらしめず、億兆その志を一にし、その力を協せて海外万里の波濤を開拓せねばなりませぬ」と、国民に奮起を促したのである。
ところで、アメリカが三国同盟にどのような対応を取るかは気掛かりなところであった。近衞は10月5日の『東京朝日新聞』の記事「太平洋平和の楔子」において、「アメリカが日独伊の立場を理解せず、どこまでも三国同盟を敵対行為と目しこれに対抗して来るなら、三国は敢然これに戦ふ」として、アジア問題への介入に対しては軍事的対決も辞さないという強い姿勢を示している。当時の近衞は決して積極的な開戦論者ではなかったが、三国同盟締結への強い意欲がこのような言辞を吐かせたと言えるであろう。
果たして、アメリカは三国同盟が自分たちを狙った軍事同盟であると判断した。10月12日、アメリカのルーズベルト大統領はオハイオ州デイトンでラジオ演説を行い、日独伊三国同盟に対抗する姿勢を示しつつ、アメリカの防衛体制強化とイギリス・中国への援助継続を訴えた。そこでは国名は挙げてはいないが、「ヨーロッパとアジアの独裁国家がいくつも結集したとしても、我々が自らの未来と民主主義のために見据える道を阻むことはできないだろう」、「自由な人々への(アメリカの)支援を止めることはできないだろう」と述べたのである。
その後、近衞は連合艦隊総司令長官の山本五十六と会見する機会があった。山本は強硬な同盟反対論者であったが、近衞は彼に日米戦争の場合の勝利の可能性について尋ねてみた。すると山本は次のように答えた。「それはぜひやれと言われれば初め半歳か一年の間は随分暴れて御覧に入れる。然しながら、ニ年三年となればまったく確信は持てぬ。三国同盟ができたのはいたし方がないが、かくなりし上は、日米戦争を回避するよう、極力ご努力願いたい」(『最後の御前会議』)。近衞は対米外交を慎重にやらなければならないことを確信したことであろう。





