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第30回 旧租界に残る近代日本:旧武徳殿と静園 東福大輔

第30回 旧租界に残る近代日本:旧武徳殿と静園 東福大輔

第30回 旧租界に残る近代日本:旧武徳殿と静園

南京路を西へ向かうと、小型の商店が連なる街路が北に伸びる地点に出る。もともと、この鞍山道は喜島街という日本租界の中心街だった。この道と、北側に東西に延びる和平路(旧旭街)とあわせた2本のメインストリートを軸とし、そのまわり1平方キロメートル程度の地域に日本租界は形成されていた。イギリス、フランス、ドイツに続いて造られた日本租界は、当時、天津租界のリーダー的な存在だったフランス租界の隣に位置し、地理的には恵まれていたものの、列強各国に比べて明らかに状態の悪い低湿地に悩まされていた。それを解消するために必要だった盛り土は20メートルにも及んだという。司馬遼太郎「坂の上の雲」にも秋山好古が「欧州各国の租界にくらべて、肩身のせまいことです」と述懐するシーンがあるが、現在においても、堂々たる広い道に重厚な建築物が立ち並ぶ他国の租界と比較すると狭く雑然とした一帯であることは否めない。列強に追いつこうと奮闘する日本のけなげな姿が目に浮かぶ。

日本租界の南口、南京路―鞍山路の交差点にほぼ完全な形で残っているのが「旧武徳殿」だ。武徳殿とは、戦前の財団法人「大日本武徳会」が国威発揚のために日本国内および当時の植民地の各地に建設を推進した武道場である。天津のものは一階が宿舎、二階が柔剣道などの練武場で、レンガ造と木造の混構造となっている。特筆すべきはその外観で、近代的な建物本体の上に伝統的な瓦屋根を載せており、これは昭和初期のファシズムが高揚する日本で流行した「帝冠様式」と呼ばれる形式である。特に大日本武徳会の建設した武徳殿は、そのイデオロギーに合致したからか、この帝冠様式をとるものが多かった。この建物の竣工は1941年だが、大日本武徳会は1946年にGHQによって解散を命じられるため、実際に武徳殿として使用されたのは5年程度でしかない。現在は天津医科大学の付属図書館として保存・活用されている。

 

旧武徳殿から北へしばらく歩くと、張園(ジャンユエン)および静園(ジンユエン)が残っている。張園はもともと、軍人の張彪の邸宅であり、孫文が一時期住んでいたことでも知られる。また、静園は外交官の陸宗輿の邸宅であった。そしてこのどちらにも、清朝最後の皇帝の溥儀が満州国の摂政・皇帝になる前に居を構えていたのである。現在、張園の方は天津京劇院となっているため内部を自由に見学することはできないが、戦後スラム化していた静園は近年オリジナルの状態に復元され、公開されている。窓のアーチがどことなく可愛らしい瀟洒な邸宅で、豪壮さにおいては紫禁城には比べるべくもない。紫禁城を追い出された溥儀はここで一体何を感じていたのだろうか。

旧日本租界には、松坂屋、書店、小学校、商業学校など、用途を変えながら現在も残る建物が数多くある。また、近年になって、東洋のマタ・ハリこと川島芳子が経営していた中華料理店「東興楼」の跡が特定されている(注)。けっして広いとは言えない区域に、溥儀や孫文、川島芳子が住み、デビュー前の李紅蘭が訪れ、そしてもちろん、歴史の表舞台には登場しない多くの日本人たちの生活が営まれていた。ここを訪れて日本、ひいては東アジアの近代史に思いを馳せてみるのもいいかもしれない。

(注)地元のシンクタンク研究員や建築関係者らからなる有志団体「天津記憶」が、30年代の電話帳や地図、写真などを分析し、「松島街13号(現哈密道42号)」と結論づけた。内装の一部は現存しているという。(産経新聞2015年9月24日)

 




写真1枚目:旧武徳殿。現在は天津医科大学附属図書館。
写真2枚目:静園、長らく廃墟同然だったが、近年再生・公開された。
写真3枚目:
map:<旧武徳殿・静園>天津市和平区鞍山道付近。天津地下鉄1号線「鞍山道」駅下車。静園は入場料20元、月曜休、9:00~17:30

 

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