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台湾で新たな省籍矛盾が急浮上(上) 戸張東夫

台湾で新たな省籍矛盾が急浮上(上) 戸張東夫

<台湾で新たな省籍矛盾が急浮上>

台湾は四年に一回の統一地方選挙を2018年11月末に控えているところから与党民進党と最大野党の国民党が台湾全土でにらみ合い、白熱した選挙運動を繰り広げているに違いない。選挙というと力が入る台湾の人たちの様子が目に見えるようだ。だが民進党と国民党の対立の影で、外省人とよばれる戦後中国大陸からやってきた人たちと本省人とよばれるそれ以前からの台湾住民との間の新たな反目や敵対意識がいろいろな場面で目立つようになったことにお気付きだろうか。80年代以後の政治改革によって特権を失い正真正銘の少数派に転じた外省人が圧倒的多数を占める本省人に対して様々な形で不平、不満をぶつけていることは想像に難くないが、見逃せないのは外省人が中国の台湾工作に加担していることである。数では太刀打ちできない本省人に、中国の力を借りて対抗しようとでも考えているのであろうか。台湾では事態の深刻さに十分気がついていないようだが、蔡英文の民進党政権が対応を誤れば台湾の前途にかかわる危険な対立に発展しかねない。外省人と本省人との対立といえば省籍矛盾とよばれ、台湾現代史が解決を迫られた最大の難問だったが、ここで語るのは民主化達成後の台湾でいま急浮上してきた新たな省籍矛盾なのである。

<外省人vs本省人>

新たな省籍矛盾を語る前にまず台湾現代史を悩ませた省籍矛盾についていささか説明しておこう。

台湾は日本が第二次世界大戦に敗れた1945年まで半世紀にわたって日本の植民地になっていた。戦争に敗れた日本が台湾から撤退すると中国の当時の国民党政府が派遣した接収部隊や関係者がまず台湾にやってきた。その後中国で国民党軍と共産党軍による内戦が勃発、共産党軍が勝利して1949年北京に中華人民共和国を樹立し、敗れた国民党軍は台湾に逃れて国民党政府の首都を台湾に移した。この時台湾にやってきたのは蒋介石総統に率いられた国民党軍とその家族、政府関係者と難民だった。軍関係者六十万人をふくむ約二百万人といわれる。

これら戦後中国からやってきた人々とその子孫を外省人とよび、それ以前から台湾に居住する人たちを本省人とよんで区別している。だが本省人にしても主として清朝年間に対岸の福建省南部から渡来した開拓民の子孫だから外省人と同じ漢族だ。つまり本省人と外省人は台湾にやってきた時期が違うだけなのである。

人口からみれば本省人が圧倒的多数をしめている。1997年の統計では本省人85%、外省人13%(先住民族2%)だという。ところが台湾の全人口のわずか13%でしかない外省人が共産党軍と内戦中の非常事態を口実に50年代以後目下内戦継続中の非常事態だという口実で政治権力を独占し、本省人の反対勢力を武力で押さえつけるという高圧的な態度をとったのである。まるで外省人は征服者で本省人は被征服者といった関係になってしまった。だが両者の関係を決定的に悪化させてしまったのは二・二八事件だった。

日本軍の台湾撤退二年後の1947年2月27日夜、台北の露天でヤミたばこを売っていた老婦人を取り締まりの専売局員と警官が殴りつけたのをきっかけに本省人の外省人に対する日ごろの不満が爆発した暴動である。暴動は台湾全土に広がり多くの人たちが犠牲になった。事件全体の死者数は数千人から数万人といわれるが今でもはっきりしない。外省人と本省人のこのような対立関係を省籍矛盾とよんだのである。

<宿命の省籍矛盾は解消した>

台湾現代史の宿命だった外省人と本省人の省籍矛盾は80年代以後の台湾の政治改革の中でほぼ解消されたといってよいだろう。

戒厳令が解除される一年前の1986年9月当局の警告を無視して結成された本省人の政党民進党(民主進歩党)を政府に認めさせたのを突破口に始まった台湾の政治改革の軌跡を以下に簡単に記しておこう。 

●87年7月長期戒厳令解除。これにともなう「党禁」(政党結社の禁止)、「報禁」(報道の自由の制限)の解除。
●87年10月台湾住民による大陸在住親族訪問を解禁する。
●91年5月「動員戡乱時期臨時条款」を廃止。この臨時条款は通常の憲法機能を停止させて行政会議における決議だけで総統の権力行使を可能にする法的根拠となった。中国共産党を反乱団体と規定している。
●大陸選出議員が牛耳る“万年国会”を解散して、国会の全面改選を実現(91年12月国民大会、92年12月立法院)。台湾住民だけで国会の改選を行なったことから、中華民国の国会が事実上台湾の国会になってしまった。
●94年12月三大首長(台湾省長、台北、高雄市長)公選を実現。これまで三大首長は任命制だった。
●95年2月台北新公園における「二・二八事件記念碑」の除幕式で李登輝総統が事件の犠牲者の遺族に対して初めて公式に謝罪した。
●96年3月台湾初の総統直接選挙が実施され、李登輝総統が再選される。

80年代から90年代にかけて進められた改革の足跡をこうしていま改めて振り返って見ると、独裁者として台湾を支配してきた蒋経国の死去(88年1月)前後の難しい政治状況の中で慎重に一歩一歩改革の実績を積み上げてきた李登輝総統ら改革派の苦心のほどがうかがえる。この十年がかりの改革を経て台湾は蒋介石父子による権威主義体制から民主主義体制への移行を完成した。大きな混乱もなく平和的に実現したことが国際的に高く評価された。本省人たちは「台湾が台湾人のものになった」「国民党外来政権の支配は終わった」「台湾は中国ではない」などと誇らしげに語り合い、喜び合った。その模様はメディアによって内外に大きく報じられた。

外省人は少数派であるにもかかわらず戦後長期にわたって政治権力を独占し、本省人を差別し、本省人の政治参加を制限し、本省人の言論や政党結成の自由を奪ってきたが、この一連の改革によって、その根拠となる特権を失い、文字通りの少数派に転落してしまった。こうして政治改革にともない戦後台湾の宿命だった省籍矛盾は自然解消したわけである。二・二八事件に対する当局の公式の謝罪も実現した。


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