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第17回 ベトナムらしい建築様式をもとめて 竹森紘臣

第17回 ベトナムらしい建築様式をもとめて 竹森紘臣

第17回 ベトナムらしい建築様式をもとめて

東京では2020年のオリンピックに向けて関連施設の建設がおこなわれている。メインスタジアムとなる国立競技場は日本のテレビでもおおく報道されたとおり紆余曲折あったが最終的に日本人建築家の隈研吾氏による提案が選ばれた。日本最古の木造建築物といわれる法隆寺のモチーフなどを意識した日本らしい「和」の表現がもちいられた。

ベトナムにはフランス植民地時代が華やかしきときに、ベトナムらしい建築様式を目指すフランス人がいた。エルネスト・エブラールという建築家で、1921年にインドシナ各都市の都市計画をおこなう任務をうけてハノイにやってくる。

エブラールはパリのエコール・デ・ボザールを主席で卒業するほどの優秀な人物であり、ベトナムでは都市計画だけではなく建築にも影響を与えた。

彼はハノイにすでにあったフランス極東学院の歴史学や民俗学の研究者のはなしを熱心に聞き、ベトナム現地の気候環境と文化に考慮した建築様式を見出そうとした。建築の設計のために気候環境や現地文化を考慮することは現代では当たり前のことで特筆すべきことでもないのだが、帝国主義の時代に、またエブラール以前はベトナムではフランスからただ輸入された建築様式の建物を建てていたことを考えると、彼の姿勢はとても先進的といえる。このような彼の姿勢が許された背景には、帝国主義時代の植民地にたいする統治側の考えが、支配から経営する目的に舵がきられたことも大きいだろう。

彼は自分が見出した様式をインドシナ・スタイルと名づけ実践した。インドシナ・スタイルは植民地として支配するフランス人建築家がつくった折衷建築様式であるが、当時のベトナム人からも人気があった。

その代表作がベトナム歴史博物館(写真1)で、当時はフランス極東学院博物館として計画され、初代学長の名前を冠してルイ・フィノー博物館とよばれていた。オペラハウスのすぐ裏にあり、フランス社交界の中心的な場所に建設された。

ベトナム歴史博物館は斗栱(ときょう)とよばれるアジアの木造建築に特徴的な屋根を支える構造システムやベトナム在来のモチーフを装飾のデザイン要素として取り込んでいる。ただし建物全体の構造はレンガ造で、斗栱や装飾もモルタルの造型でつくられている。一見した感じではモルタルでつくっているとは思えないほどの精緻な造型である。内部空間でも木造建築の貫などのモチーフが取り入れられている。ベトナム文化にたいするエブラールの造詣の深さや知識、また敬意が強く感じられる。

エブラールはその後、ハノイにあるインドシナ大学(現ハノイ総合大学)(写真3)やインドシナ政庁財務部(現財務省)、以前この連載でも紹介したことのある北門教会などの設計を手がけた。いずれもそれぞれオリジナリティの高いデザインあるが、彼は1927年にベトナムを離れてしまう。そしてエブラール以降、他の建築家によるインドシナ様式建築は数軒の小規模な住宅のみしか建設されなかった。

インドシナ様式はエブラールという建築家がなしえたベトナム建築の歴史のなかの特異点といえる。エブラール以後はふたたびフランスからの様式輸入がおこなわれ、一部現地仕様になることはあったがインドシナ様式のようなドラスティックな現地化は行われなかった。

エブラールはインドシナ様式建築の創造だけでなく、インドシナの建築の未来も見据えていた。彼はインドシナ高等芸術学院(エコール・デ・ボザール・インドシナ)に建築学科を設立した。その学校からはおおくのベトナム人建築家が輩出され活躍することになる。たった6年でハノイを去ってしまったエブラールだが、その後に与えた影響も非常に大きく、フランス人でありながら偉大なベトナムの建築家のひとりといえるだろう。


写真1枚目:ベトナム歴史博物館 外観(ハノイ、ベトナム)
写真2枚目:ベトナム歴史博物館 内部(ハノイ、ベトナム)
写真3枚目:ハノイ総合大学 外観(ハノイ、ベトナム)
map:ベトナム歴史博物館、ハノイ

 

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