1. HOME
  2. 記事・コラム一覧
  3. コラム
  4. 第6回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

記事・コラム一覧

第6回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

第6回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

留学時代の倫敦旅行

これまでは、近衞篤麿の趣味や家庭のことについて述べてきた。今回は、彼が欧州留学中に初めてロンドンを旅行した時の見聞について書いてみよう。近衞が多忙になる前の出来事なので、タイトルからはやや逸れることになる。

近衞がボン大学に入学したのは1886(明治19)年10月のことであった。その約1ヵ月ほど前の9月16日、ロンドン滞在中の藤波言忠から手紙が届いた。当時、藤波は宮内省の侍従職にあり、近衞より10歳年長ながら以前からの知人であった。手紙によれば、大学は夏季休暇中であるため、ロンドンに遊びに来てはどうかというものであった。

誘いを受けた近衞は、「心忽ち動く」ものがあったと旅行記「廿日ノ夢」に書いている。この際、世界一の都市と言われるロンドンを見ておこうと思ったのだ。実は、これより前に大学の指導教授であるヨハネス・ユストゥス・ラインからロンドン行を誘われていたのだが、近衞は友人と一緒の方が気が楽だと思い、適当な口実を作ってこれを断っていた。そして、翌日単身でボンを出発し、列車と船を乗り継いで18日にロンドンに到着し、車中で知り合った人に借りた地図を頼りに藤波の宿泊先にたどり着いた。

その後、街に出た近衞はロンドンの地下鉄に驚かされる。それは、数分ごとに往来するというもので、日本では考えられないものであった。聞けば、ロンドンでは商業が盛んであるため、相場師たちは寸時を惜しんで行動する必要があり、悠長に乗合馬車などを使ってはおられず、地下鉄が発達したのだという。

当日は、同地に滞在する日本人名士に挨拶した後、藤波らと共に英領植民地の物産を展示した植民地博覧会を見学し、劇場でバレエを観るなどしている。日本にバレエが伝わるのは20年以上後のことなので、近衞が観たのも初めてのことだったに違いない(ドイツで観たとの記録はない)。ただ、旅行記には「伊国の女優の演ずる処なり」と書かれているだけで、彼の感想のほどは不明である。

20日は午後から水晶宮の見学に出掛けた。かつてハイド・パークにあったものを、市の南郊に移したものである。これを見た近衞は次のように書いている。「実に大建築にして鉄柱を以てなり、四面上部張るに玻璃(ガラス)を以てす、遠見すれば氷山の如く実に水晶宮の名に恥ぢざる者と云ふべし。庭園も亦美なり」。近衞はその素晴らしさに圧倒されたものと見える。しかし、その夜に訪れた「日本人村」での体験は、近衞の気分を一転して最悪なものにさせた。

日本人村について、近衞は「昨年帰化の洋人田中なる者、日本労力者の如き下等社会の者の状を洋人に示して巨利を博せんとの意を以て米国を経て此地に来り、大陸をも一回りして再び当地に興行する者」と記している。ここには「田中」とあるが、本名をタンナケル(タナカーとも表記される)・ブヒクロサンというオランダ人で、オタケサンという日本人女性を妻としていた。彼は前髪を剃って丁髷を結い、田中と名乗って日本人のように生活していたという。

ブヒクロサンは、かつて英仏駐日公使館で通訳者を務めていたが、転じて日本に関わる興行師となったといわれる。彼はオーストラリアなどで活動した後、ジャポニズム(日本趣味)が流行するイギリスに目を付け、1885年から87年にかけて、ロンドンのナイツブリッジで日本人村という日本の風俗を紹介する見世物施設を作ったのである。この時、ブヒクロサンの募集に応じて、100人近くの日本人が同地に渡ったという。

日本人村には日本茶屋、寺社、劇場などが揃い、歌や踊り、職人の実演や工芸品の展示・販売などが行われた。興行の評判は高く、イギリスの新聞だけでなく、New York Timesにも紹介記事が掲載されるほどだった。しかし、これを見た近衞は怒りを露わにしている。「廿日ノ夢」には次のようにある。

場内寄席あり手品を興行す。此の如きは猶恕すべし。次の醜悪の少女三名出て舞ふ、それさへ巧ならず。一婦三絃を横たへ、濁声春雨の曲を歌ふ。我々実に地にも入らん心地せり。殊に醜婦を撰抜せしものゝ如し。

「春雨」とは恐らく地唄・端唄の類だろう。それにしても、「醜悪の少女」「醜婦を撰抜せしもの」とは酷い表現である。

続いて、職人たちの実演の部屋に入ってみた。そこでは、「或は団扇を張り、提灯傘屋あり、表具師あり、塗師あり、彫物師あり」と様々な職業が紹介されていた。近衞は、「此の如きは洋人の目に珍奇にして、左迄拙ならぬことなれば」よいとしている。しかし、彼らが「皆半天を着し或はどてらを着して坐する様は、甚だ見苦かりし」と、その身なりの悪さには不快さを記している。

近衞としては、何もわざわざ日本の下等社会の様子までも、ジャポニズムの素材として供する必要はないと思ったのだろう。部屋を出た近衞は、日本人女性から茶室へ入るよう勧められたが、怒りのあまり顔を背けて断り会場を後にしたという。こうした態度からは、貴族階級としての近衞のプライドが窺える。

以上が、近衞の旅行記「廿日ノ夢」にある日本人村についての記述である。しかし、読んでみて1つ気になることがある。それは、近衞と藤波が、事前に日本人村についての情報を持っていなかったのかということだ。というのは、日本人村の計画は1884年から始まっており、日本の新聞でもそのことが紹介されていたからである。同年7月26日の『郵便報知新聞』には、「日本にて各種の賤業を営む下等人民百名程を雇入れ、其見るに堪へられぬ風俗等を其まゝ見せ物にせんと企て」ていることが紹介されていた。

当時、国内にいた近衞は、いかに留学準備に忙しい時期であったとはいえ、このような情報に接していなかったとは考え難い。すでに政府の職員だった藤波なら尚更のことだろう。そうだとすれば、近衞らの日本人村参観は、日本で悪評極まりない興行を実際に自分の目で確かめておこうとしてのことではなかったかと推測される。このことは、前著では考えが及ばなかった点である。

近衞のロンドン滞在は観光が主目的であったが、社会観察にも怠りなかった。著書には、一見豊かに見えるイギリス社会に存在する階級格差の問題が記されている。彼のそつのなさを示していると言えよう。なお、ロンドンでは先に誘いを断っていたライン教授と偶然に出会った。普通なら動揺するところだろうが、近衞は何事もなかったかのように対応している。彼は若いころから如才ない性格だったようだ。

《近衞篤麿 忙中閑あり》前回
《近衞篤麿 忙中閑あり》次回
《近衞篤麿 忙中閑あり》の記事一覧へ

タグ

全部見る