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第7回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

第7回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

アルプス旅行の記

今回も引き続き、留学時代の話にしようと思う。前回に書いたように、近衞篤麿がボン大学に入学し、指導教授として師事したのはヨハネス・ユストゥス・ラインであった。この人物は地理学者で日本研究家としても国際的に知られている。東京帝国大学地理学教室の創設者はラインの下で学んでおり、日本の学術界にもかなりの影響を与えたと言えよう。

ラインは面倒見の良い人だったようだ。近衞に対しては、就学や住居の手配など公私にわたって面倒を見てくれた。1886(明治19)年10月には、祖父・忠煕に宛てた手紙の中でラインから一方ならぬ世話を受けていることを報告し、今後のためにも彼に礼状を送るように依頼しているほどであった。そのラインからアルプス山脈踏破の旅を誘われたのは翌年のことである。

1887年8月10日から1ヵ月以上にわたる旅行には、前年1月にドイツに来ていた二人の弟(英麿と鶴松)と、他の留学生も加わり総勢8名が参加した。留学中の近衞は、暇さえあれば各地に旅行していたというが、この時のアルプス行はかなり印象に残るものだったようだ。10年後、近衞は「瑞伊日記」(『輔仁会雑誌』47、48、49号、1897~1898年)を書き、その時の見聞と印象を記している。

旅行に出てからは、その風景の素晴らしさに圧倒された。列車の中から見た風景を、近衞は次のように記している。

…山甚だ高からずと雖も樹木鬱惣として、時々白雲の山腹に往来するを見、曙光は山嶺を照らして下に清流あり。宛然函山の暁景なり。路スツエの渓間を過ぐ。線路の両側懸崖数十仞、突兀(とっこつ)たる巌石は将に我列車の上に落ち来らんとするが如く、又山麓にも奇岩怪石の樹木の間に出没するあり。奇景と称すべし。

情景が目に浮かぶような文章である。これが24歳の時の日記そのものであるとすれば、近衞の文章力は極めて優れていたと言えるだろう。

山行を始めてからも、日記には風景の記述が多く見られるが、同時に一行を先導するラインによる高山植物についての解説や、訪れた土地の由来などの説明も書かれている。近衞らがラインの該博な知識に対して大いに尊敬した様子が窺える。

8月23日、一行はイムホフという僻村に到着した。そこで休憩を取った茶店でのエピソードには興味深いものがある。そこの主人は、質朴で飾り気のない人物であった。そこでラインは主人に向って、我ら一行の中には外国人がいるが何処の国の人か分かるかと問うてみた。すると主人は、「阿弗利加(アフリカ)人ならんか」と答えた。

これを聞いた学生一同は絶叫したという。そして近衞は、「独逸にて余等支那人と誤認せられしこと甚だ稀れならず。今阿弗利加の黒奴と認められしは之を以て始めてとす」と記している。これに対して、ラインは学生たちに次の様に言って一同を慰めた。「諸君を黒奴と認むる固より無礼なり。然れども彼れ悪意ありて云ひしに非ず。実に日本国のあるを知らざるが為なり」。近衞もまた、「唯、欧州中、未だ我邦あるを知らざるもの多きを嘆ずるのみ」と書いている。

確かに、日本人を指してアフリカ人かと言われれば、当時の人が絶叫するほど驚く気持ちは理解できる。だが、それは外観や風貌に対する違和感に起因するものではなかっただろう。そのことは、「黒奴」という言葉に表れているように、人種的劣等視に基づいていることは容易に理解できる。近衞もその例外ではなかったと言える。もちろん、こうした姿勢や言説については、まだ差別という概念が希薄な時代のものであることを念頭に置く必要はあるだろう。

さて、ラインに対しては常に礼儀正しく接している学生たちであったが、ある日の出来事は彼らに強い不満を抱かせることとなった。それは旅行も終盤にかかった9月10日のことであった。

この日イタリアのカッラーラにいた一行は、早朝から大理石採掘の見学などのスケジュールをこなし、午後には列車でラ・スペツィアに移動した。駅からホテルに移動するに当って、ラインは距離はさほど遠くないので、馬車など乗らずに歩いて行こうと提案した。学生たちは朝早くからの行動のため疲れてはいたが、ラインの意見に従ってリュックを背負って歩き始めた。

ところが、ラインは道を間違えてしまい、数十分間も歩きまわったうえ、人に道を教えてもらって目的のホテルに到着した。すると、そのホテルは満室であるとして断られ、別のホテルを探してようやく投宿することができた。散々な目にあった学生たちは、これがラインが馬車賃を吝んだためだと考えた。近衞は次のように記している。

一行終日の疲労あるに、背嚢を携へて数十分間徒を歩せしめられしことより、皆不平の色あり。此に至不平の態度益々熾(さかん)なり。耳語して云ふ、ライン氏にして停車場外より乗車せば、二輌の馬車能く我一行を乗するに足る。ライン氏少額の銭を惜みしより此困難あり。氏も亦吝嗇なる猶太(ユダヤ)人にも比すべし抔(など)囁くものあり。挙動甚だ穏かならず。余も亦心中快ならず。

近衞さえも心の中で怒っていたのだ。夕食時には誰も一言も発せず、異様な雰囲気が場を覆っていた。これではまずいと思ったのだろう。ワインを数杯飲んだ近衞は、おもむろに近くにいた学友に「余酔へり、尚ほ怒らんと欲すれども怒る能はず」と述べたと記す。今の言い方では、「酔っ払っちまった、もう怒る気なんかしないよ」という感じだろうか。これを聞いた学生たちは、吹き出してしまって、怒りを忘れてしまったという。近衞の機転が場の空気を変えたのである。

9月15日にボンに帰着後、近衞は「今回の旅行は時として困難を感ずることありしも、亦追想すれば甚だ愉快なる旅行にてありき。若しライン氏の同行せられざりせば、此日子間に此踏みたる地を到底行盡すこと能はざりしならん」と書いている。だが、これが10年後の社会的地位を得た後の回想であることは明らかである。

というのは、旅行直後に書かれた祖父宛ての手紙では、ラインが悪天候にも拘わらず歩行を強いたことから、近衞が立腹して終日会話をしなかったこと、そして弟の鶴松がラインを「狂人なり又は化物なり」と悪口を言ったことが記されているからである。近衞の本音は、山行はもう懲り懲りだ、高山を好んであるくヨーロッパ人の気が知れない、ということだったのではないだろうか。

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