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第8回「神鞭知常(こうむちともつね)」―対露同志会委員長― 栗田尚弥

第8回「神鞭知常(こうむちともつね)」―対露同志会委員長― 栗田尚弥

「神鞭知常(こうむちともつね)」―対露同志会委員長―

前回触れたように、ロシアによる「満洲」一帯の占領に対する「対外硬」世論を喚起すべく、近衞篤麿が中心となって、明治33(1900)年に組織された国民同盟会は、1902(明治35)年4月、清露間において満洲還付条約が締結されたことにより、「支那保全」の目的が達せられたとして同月解散した。だが、ロシアは、還付条約で約束された第2次撤兵の期限(1903[明治36]年4月8日)が近づいてもこれを実施しようとしなかった。

この事態を懸念した近衞やその周辺は、国民同盟会の活動を再開すべく、対外硬同志会を結成、撤兵予定日の4月8日に上野公園梅川楼で大会を開いた。同年6月、戸水寛人、中村進午ら七博士が、桂太郎首相、小村寿太郎外相らに対し意見書を提出、対露武力強硬路線を採るよう迫った。これに触発された対外硬同志会のメンバーは、8月9日神田錦旗館にて再度大会を開き、対外硬同志会を改めて対露同志会として旗揚げした。しかし、同志会の中心となるべき近衞は、すでにその死の原因となるアクチノミコーゼ菌に冒されており、間もなく病床に臥する身となった(翌37年1月死去)。この病床の近衞に代わって、委員長として対露同志会を統括したのが、元内閣法制局長官神鞭知常であった。

神鞭知常は、嘉永元(1848)年8月4日(新暦9月1日)、丹後国与謝郡石川村(現、京都府与謝野町)に生まれた(幼名、重太郎、秦一郎、号は謝海及び千里、通称、麻渓先生)。当初姓は単なる鞭であったが、後に神鞭と改姓した。

幼時、父重蔵とともに京都に出、呉服商帛紗屋勘兵衛方の丁稚となった。勘兵衛は神鞭の非凡の才を見抜き、神鞭に「店努の労を免じ国学漢籍を学ぶの途を与へ」たという(『東亜先覚志士記伝』下巻)。文久元(1863)年、一旦郷里に帰った神鞭は、翌元治元年再び京都に出、まず蘭方医新宮涼閣の門に入り蘭学を学び、次いで神山鳳陽のもとで漢学を学んだ。この鳳陽塾では、神鞭は塾頭にまでになっている。この後、京都の生糸商の店員や郷里の神社別当、宣教師を務め、明治3(1871)年、町人身分の出身ながら宮津藩の准権大属に抜擢され、東京出張の命を受けた。

しかし、神鞭は東京に到着後間もなく、准権大属の職を辞し、同郷の先輩で小菅県(現在の東京都足立区・葛飾区他)の県令河瀬秀治の書生となった。まず神鞭は、何礼之(開成所[現、東京大学]御用掛などを経て、後に元老院議官)に英語を学び、さらに当時芝愛宕山麓にあった勧学義塾において英国人から直接英語を学んだ。

明治5年晩秋、神鞭は、星亨(後に逓信大臣、衆議院議長)の門人である野沢鶏一、藤井伸三の訪問を受けた。二人は神鞭に、星が翻訳中の『ブラックストーン氏英国法律全訳』の校正を求めた。神鞭は、陸奥宗光邸において星と会談、申し入れを承諾、星の自宅に寄寓し、校正の任にあたるとともに、自らも翻訳に従事、星の為に得意の漢籍も講じた。二人は意気投合し、「終生の交誼を結んだ」(『対支回顧録』下巻)。後に、二人は共に衆議院議員となり、政党・党派を別にすることになるが、神鞭と星の友情は、明治34年の星の死まで続いた。

明治6年3月、星が横浜税関次長(翌年1月、税関長)に任ぜられると、多分星の推薦によるものであろうか、神鞭も横浜税関に職を得た。しかし間もなく、英国女王の日本側呼称を巡って星と英国領事館が対立、日本政府(三条実美太政大臣、寺島宗則外務卿)が英国側の主張を容れるに及び、星と神鞭は強く抗議、「議容られざるを憤って共に税関を去」った(前掲『東亜先覚志士記伝』下巻)。

横浜税関を去った神鞭は、その後一時大蔵本省に勤務したが、すぐに内務省勧業寮に転じ、明治8年2月商工業視察のために米国に出張、翌明治9年から10年2月までフィラデルフィア博覧会御用掛を務めた。帰国後の明治11年(12年説あり)、再び大蔵省に出仕、明治19年には主税局長に就任した。

多分この役人時代のことであろう。神鞭は星と同じく終生の友となる二人の人物と知り合っている。陸羯南と高橋健三である。特に陸との交誼は深く、後に陸が経営する日本新聞社が経営難に直面した時、神鞭は陸とともに、近衞篤麿に資金援助を依頼している。

明治20年12月、神鞭は大蔵省を非職となり、以後数年間在野の人としての生活を送るが、明治23年7月の第1回衆議院議員選挙に京都第6区から立候補、当選を果たした。以後、第7回選挙を除き、第8回選挙まで計7回の当選を果たした(ただし、第4回選挙では事情により当選を辞退した)。

明治31年6月、立憲自由党(総理・板垣退助)と進歩党(党首・大隈重信、明治29年立憲改進党が中心となり成立)が合体し、憲政党が出来ると、神鞭もこれに参加、憲政党に入党した。第1回選挙から第5回選挙(明治31年3月)まで神鞭は無所属で立候補していたが、その立場は大隈の立憲改進党(進歩党)よりだったと思われる。結党後、わずか4か月にして、憲政党が憲政党(新憲政党、自由党系)と憲政本党(進歩党系)に分裂すると、神鞭は憲政本党に所属した。

衆議院議員としての神鞭は、対外硬の立場を堅持していた。明治26年7月、外相陸奥宗光は、安政年間に欧米列強と徳川幕府の間で結ばれた不平等条約(安政の五カ国条約)を改正すべく、第2次伊藤博文内閣閣議に条約開改正案を提出した。この改正案は、治外法権の撤廃と関税自主権の一部回復を内容とし、その見返りとして欧米人の内地雑居を許すというものであった。そして陸奥は、交渉に際し国別談判方式を採用し、まず英国から交渉を開始した。実はこの前年、瀬戸内海において、日本海軍の水雷砲艦千島が英国ピーオー汽船会社(P&O)所有の商船と衝突し沈没、犠牲者が出るという事件が起きていた。事件発生後、日本政府とP&Oはともに、安政の五カ国条約に基づき、横浜英国領事裁判所に損害賠償を求める訴訟を提起した。横浜の一審は実質日本の勝利となったが、上海の英国高等領事裁判所で行われた控訴審ではP&Oの全面勝訴となった。これに対し、日本の世論は激昂、全面的な条約改正か現行条約の条文を徹底して外国人を居留地に留め置くべし、との声が高まった。明治26年10月、神鞭は、条約改正拒否・内地雑居反対を掲げて、安部井磐根らと超党派の政治結社、大日本協会を結成した。立憲改進党や国民協会などの会派も、これに呼応し衆議院内に条約反対を掲げる党派連合(硬六派)が結成された。同年11月28日に開会された第5帝国議会では、この硬六派と政府が全面対立、12月30日、政府は衆議院を解散した。

明治29年9月、立憲改進党の協力を得て(党首の大隈が外相として入閣)、第2次松方正義内閣(松隈内閣)が出来ると、神鞭は内閣法制局長官兼内閣恩給局長として入閣した。同内閣には、親友高橋健三も内閣書記官長として入閣している。神鞭の入閣は、高橋が副総理格の大隈に神鞭を推薦した結果であろうか。

多分陸羯南の引き合わせによるものであろう、この頃すでに神鞭は、近衛篤麿の知遇を得ていた。近衞は、明治29年9月30日の日記に「神鞭知常、法制局長官に任ぜられたり」(『近衞篤麿日記』第1巻)と記している。この翌日、神鞭が星ヶ岡茶寮(星岡茶寮、当時のいわば社交クラブ)で晩餐中の近衞を訪問、「松方総理面会致し度に付直に官邸迄来れとの事」を伝えた。近衞は神鞭を伴い、直ちに松方のもとに赴いた。用件は、近衞の貴族院議長就任への要請であった。近衞は、「種々相談末、承諾した」(同書)。貴族院議長就任後、近衞は、神鞭法制局長官、高橋内閣書記官長と屡々会同、選挙規則改正等について協議している。

明治31年6月30日、日本初の政党内閣である第1次大隈重信内閣(副総理格として板垣退助が内務大臣として入閣。隈板内閣と言われる)が成立した。同日、神鞭は近衞を訪問、法制局長官としての入閣を要請した(『近衞日記』第2巻)。近衞は、これを拒絶したが、神鞭は日にちをかえて再三再四要請した。神鞭によれば、内閣は出来たものの、「板隈両伯の心中尚ほ隔意あるものゝの如く、永続の点甚覚束な」い状態であった(同書)。神鞭は、近衞が内閣の要石となることを期待したのであろう。結局、近衞は断り続け、内閣法制局長官には、神鞭自身が就任した。しかし、案の定、与党憲政党は、結党後4か月で分裂し(先述)、隈板内閣も短命で終わる。

明治31年11月、近衞を会長として東亜同文会が組織された。発会メンバーに神鞭の名はないが、32年1月の時事討究会等について記した『東亜時論』第4号の「会報」欄に、入会者として神鞭の名を見ることが出来る。間もなく、神鞭は同文会の評議員となり、会の運営に参与することになる。

明治33年9月、近衞を中心として国民同盟会が組織されると、神鞭もこれに参加する。憲政本党党員でもあった神鞭は、党として国民同盟会に参加した憲政本党と同盟会の連絡役(交渉委員)としての役割も担うことになった。

ともに英国式の立憲君主制を良とする近衞と大隈の政治的スタンスは、重なる点が少なくない。ただ、時として、近衞は憲政本党(大隈)に対する不満を表すこともあった。その際神鞭は、聞き役の一人となっていた。たとえば、明治34年1月25日の日記によると、近衞は神鞭宛に、「進歩党(憲政本党のこと-栗田注)の濫りに満洲決議案を出して敗るゝを顧みず自から正義者たりとの評判を得れば足れりとするは国に忠なるものにあらず余は此問題に付ては先導者なり進歩党と雖も帝国党と雖も余の不同意をも顧みずして決議案を出す事は出来ざるべし」という「激烈の書面」を発している(『近衞日記』第4巻)。
そして、先述したように、対露同志会が結成されると、神鞭は病床の近衞に代わって委員長として会を統括することになった。 

明治37年2月6日、日本はロシアに宣戦を布告、日露戦争が開始された。そして、対露同志会は、所期の目的を達したとして解散した。翌38年6月21日、戦争の終結を待たずして神鞭も病没した。

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