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第9回「大隈重信」―近衞篤麿に最も近い政党人― その1 栗田尚弥

第9回「大隈重信」―近衞篤麿に最も近い政党人― その1 栗田尚弥

「大隈重信」―近衞篤麿に最も近い政党人― その1

近衞篤麿の政治家としてのキャリアは、明治23(1890)年9月貴族院議員に就任したことに始まる。議員就任後間もなく、近衞は、谷干城、曾我祐準、鳥尾小弥太、山川浩らが組織した院内会派懇話会の客員となり、一方自らも二条基弘、三浦梧楼らと図ってやはり院内会派である同志会を組織した。さらに、24年3月、近衞は、二条基弘とともに財政問題の調査を目的とした月曜会を設立、谷ら懇話会員もこれに参加した(事実上の合流)。一方、同志会は、同じく同年3月に貴族院議員以外の華族や多額納税議員も会員に迎え、改めて三曜会となった。

月曜会も三曜会も、政治的には中立を標榜し、政府と政党が協力して政局にあたる「責任内閣」制を主張していた(政治的主張がほぼ同じであり、メンバーも重複するため、月曜会は明治25年頃自然消滅)。欧州留学よりの帰国直前の明治23年6月、近衞は「国務大臣責任論」により、ライプチヒ大学から法学博士の学位を授与されていた。「国務大臣責任論」は、英国型の立憲君主制を是とするもので、月曜会や三曜会の政治的スタンスと重なるものであった。

このような近衞にとって、明治31年6月の憲政党内閣の成立は、いわば立憲政治の必然であった。6月27日、近衞は、芝公園内の紅葉館(会員制の高級料亭)に集った貴族院の同志を前に次の様に語っている。

立憲政治の世となりては結局政党内閣となるのやむを得ざるものなれば、区々たる感情に駆られてこれを拒くは余等の取らざる処たるは、余が諸君と共に常に口にする処なり。故に今日政党内閣の組織せらるゝは、勿論政界の一進歩として余の慶賀する処なり。(『近衞篤麿篤麿日記』第2巻)

憲政党は、やはり明治31年6月に、自由民権派の二大政党である自由党と進歩党の大合同によりできた政党であった。そして、憲政党内閣は、日本憲政史上初の政党内閣であり、「板隈内閣」という名で呼ばれている。「板隈」の「板」とは、この内閣の内相(副首相格)であり、自由党総裁であった板垣退助のことである。そして、「隈」とは、この内閣の首班であり、進歩党を代表する(同党は正確には党首職を置かなかったが、事実上の党首)大隈重信のことである。

実はこの大隈、近衞を最も評価した政党人であった。例えば、明治29年10月、近衞は貴族院議長に就任するが、その際近衞を強く推したのは大隈であった。上記板隈内閣が出来た時には、近衞は、大隈から、再三再四入閣を要請されている。また、明治29年6月、近衞が学習院院長として、当時外相の職にあった大隈に「(学習院の)大学科卒業生を事務見習として採用」することを要請すると、大隈はこれを「承諾」している(『日記』第1巻)。さらに、成瀬仁蔵(明治期を代表する教育者の一人)が、後に日本女子大学となる女子高等教育機関の設立に向けて動き出すと、大隈もこれに協力し、近衞をその創立委員長に推薦している(近衞は辞退し、結局大隈自身が就任)。

近衞も大隈に対しては敬意をもって接していた。近衞は、朝鮮情勢などについて、しばしば大隈と意見を交換している。また、明治29年7月には、大隈に学習院卒業式での演説を依頼し、卒業式翌日にはわざわざ演説の謝礼のために大隈邸を訪問している。明治31年8月、東邦協会の総会に来賓として出席した大隈が、「日本と支那とは唇歯の間柄ではあるし、且人種も類似し、同一文字を使用することであるから、支那の独立を奪取するが如きことの有る可らざるの次第で、決して其の土地を奪取する如きことの有る可き筈は無い」と演説した折には、近衞は「起ちて、伯爵(大隈のこと‐引用者注)の来臨を謝」している(『毎日新聞』明治31年10月21日、『日記』第2巻)。世間的にも、近衞は大隈に近いと見られていたようで、明治31年11月6日には、「板垣伯が先月末内奏したる内に、近衞は大隈党の一人なれば御用心なかるべからずと述べし」ということを訪問者から聞いている(同書)。(これに対し近衞は、「余が大隈に党して如何程の妙あるかといふことを考へれば、其何の必要もなき事と云事は判然たらん」[同書]と軽くいなしている。)

大隈重信は、天保9(1838)年2月16日(新暦3月11日)、肥前佐賀藩士大隈信保の長男として、佐賀城下(現、佐賀県佐賀市)に生まれた。幼名は八郎太。大隈家の家禄は400石、伊藤博文や山県有朋などと異なり、大隈は堂々たる上士の出であった。

大隈は幼少期より秀才の誉が高く、7歳で佐賀藩黌弘道館に入学、朱子学を中心とした漢学を学んだ。その傍ら枝吉神陽のもとで国学を修め、後には蘭学も学んでいる。ただし、弘道館の方は、安政2(1855)年に退学となっている。同志ともに同館の改革を唱えたためであった。もっとも、藩は「秀才」大隈を切り捨てるようなことはせず、文久元(1861)年、大隈は藩主鍋島直正の前でオランダ憲法について講じている。またこの頃、蘭学寮を合併した弘道館の教授に就任している。もっとも教授とは名ばかりで、実体は他藩人士との外交にあったようだ。ちなみに鍋島直正は、佐賀藩の財政再建と軍備の近代化を成功させたいわゆる「名君」であり、蘭学に対する関心も深かった。明治維新後、佐賀藩(肥)が、薩摩藩(薩)、長州藩(長)、土佐藩(土)と並んで、「薩長土肥」の一角を占めるようになったのは直正の存在によるところが大きい。

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