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〔16〕昭和初期に存在した謎の「チチハル時間」 小牟田哲彦(作家)

〔16〕昭和初期に存在した謎の「チチハル時間」 小牟田哲彦(作家)

〔16〕昭和初期に存在した謎の「チチハル時間」

第2次世界大戦前に市販されていた鉄道時刻表を開くと、巻頭に国際列車の連絡時刻が掲載されていて、日本列島から朝鮮、満洲、中華民国方面、それにシベリア鉄道を介してヨーロッパ方面まで列車で乗り継いでいけることがわかる。当然ながら、列車の時刻は「標準時間」という欄に記されている現地時間で示されている。

このうち、「満洲時」は大正末期から昭和10年代まで一定しなかった。清王朝や中華民国時代は南の中国大陸と一体だったため、中国大陸と同じく日本時間より1時間遅い標準時が採用されていた。その後、昭和12(1937)年1月にこの満洲時間は日本内地と同一の時間に改められ、1時間の時差が解消されている(代わりに、中国本土と1時間の時差ができた)。

もっとも、例外として帝政ロシアからソ連が権益を引き継いで昭和初期まで運営していた東清鉄道(東支鉄道・中東鉄道・北満鉄道)では、満洲時間より26分(大正中期までは23分)早いハルピン時間という標準時が存在した。ハルピンがイギリスのグリニッジから8時間26分東を通る東経126.5度の地点に位置していたことに由来すると思われるこの中途半端な標準時は、ソ連が管理する東清鉄道でのみ用いられていた。したがって、同じ北満洲地域であっても、満鉄の四平街から分岐して北西方面へ北上する四洮鉄道・洮昻鉄道では、チチハル付近で東清鉄道と交叉する地域でもハルピン時間ではなく満洲時間によって運行されていた。

しかもそのチチハルには、ハルピン時間よりさらに30分早いチチハル時間という独自の標準時があったという。これは東清鉄道のチチハル駅(画像参照。当時の絵はがき)から軽便鉄道で1時間ほどかかるチチハルの市街地でのみ用いられていたようで、当時の旅行ガイドブック『旅程と費用概算』の昭和7年改訂増補版には、「齊々哈爾市ノ時刻ハ列車發著時刻ニ關係シナイノデ一般旅客ハ之ニヨル必要ハナイ」との注記がある。

(戦前のチチハル駅)

つまり、チチハル市街地ではチチハル時間、東清鉄道の最寄り駅ではハルピン時間、洮昻鉄道の最寄り駅では満洲時間と、限られた地域に3つの標準時間が併存していたことになる。帝政ロシアやソ連と関係が深いハルピン時間を用いないのはまだしも、清王朝や中華民国の標準時でもあった満洲時間とも異なる時の流れを、チチハルという城塞都市の城壁の内側でだけ採用していたのだ。

ただ、このチチハル時間については、わからないことが多い。そもそも、チチハルはハルピンより西にあるのに、その標準時がハルピンより30分早いというのは矛盾している。それに、前掲『旅程と費用概算』には、チチハル市街の最寄り駅から洮昻鉄道に乗る場合に「南満時刻ニ付時計ヲ三〇分遅ラスコト」と書かれているが、チチハル時間から直接満洲時間に合わせるなら56分戻さなければならないはずである。それとも、ハルピン時間で走る東清鉄道でチチハルに着いたときは「ソノ上ニ三〇分進メル」と書いている同書他ページの記述が誤りで、はじめからチチハル時間は満洲時間と30分差だったのだろうか。

その後、ハルピン時間については、満洲時間と統合されて消滅したことが昭和10(1935)年の『旅程と費用概算』に記されているが、チチハル時間の消滅に関する記述は見当たらない。チチハル時間なる標準時がいつ頃設定され、いつ頃なくなったのかなどは、旅行ガイドブックの分析だけでは限界がある。日中双方の文献を紐解いた後世の研究者が、この史実を解明してくれるときがいつか来るだろうか。

《100年のアジア旅行 小牟田哲彦》前回
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