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〔17〕旧外地に残る大日本帝国時代のマンホール 小牟田哲彦(作家)

〔17〕旧外地に残る大日本帝国時代のマンホール 小牟田哲彦(作家)

〔17〕旧外地に残る大日本帝国時代のマンホール

路上に見られるマンホールの蓋のデザインに興味を抱いて、全国各地のマンホールの鉄蓋に施されたご当地デザインなどを見て歩く人を、近年はマンホーラーと呼ぶ。道行く人が誰でも気がつきやすいように、カラフルに彩られたマンホールの蓋も増えてきた。手元のスマホで簡単に写真が撮れるようになったことも、マンホールの蓋のデザインの多様性に注目する人が増えた要因と思われる。

マンホールの蓋が観光旅行先での注目ポイントとして早くから捉えられていたのが、かつて外地と呼ばれた大日本帝国時代の植民地ないし海外権益地だった。日本の統治は第2次世界大戦とともに終わったが、その統治期間中に市街地で設置された分厚い鉄のマンホール蓋の多くは、戦後も長くそのまま使われ続けた。当時のマンホール蓋には、満鉄の社紋や当時の地方都市の市章、あるいは日本式の漢字表記がそのまま刻まれているので、現地を訪れた日本人観光客が注目するようになったのだ。

遼東半島の先端部に位置していた関東州の中国・大連には、満鉄の本社が置かれていた経緯もあり、2000年代初頭までは満鉄の社紋入りマンホールが市街地のあちこちに見られた。有名だったのは旧・満鉄本社(現在も中国国鉄の大連事務所として使用されているほか、建物の一部が満鉄旧址陳列館として公開されている)前にあったマンホールで、満鉄本社の建物を見物に来た日本人観光客が、建物前の歩道にある満鉄マーク入りマンホールにカメラを向けていた。ちなみにこの満鉄本社前のマンホール、現在は歩道上からは撤去されて、満鉄旧址陳列館で展示されている(画像参照)。

(満鉄マンホール)

数は少ないが、北朝鮮でも日本統治時代のマンホールは現存している。平壌駅前には漢字で「防空水槽」と書かれ、当時の平壌府の紋章が描かれた鉄蓋が見られる(画像は拙著『改訂新版 大日本帝国の海外鉄道』〔扶桑社、2021年〕参照)。街の中心部にある金日成・金正日父子の巨大な銅像が建つ万寿台付近の車道には、日本の郵便記号「〒」マークに漢字で「電話」と書かれたマンホールが確認できる。

スマホやデジカメが普及する以前の中国では、日本人観光客ばかりが貴重なフィルムを使って足元のマンホールの写真を撮る姿は、奇妙な光景だったに違いない。マンホーラーという言葉が生まれる前から、(私も含めて)多数の日本人観光客がかつての外地でマンホーラー的行動をしていたのだ。ただ、マンホーラーが市民権(?)を得つつあるのと反比例して、大日本帝国時代の貴重なマンホールは徐々に公道上から姿を消しつつある。20世紀末から21世紀初頭にかけての10数年間、外地の戦前製マンホールの残存期と日本におけるマンホーラーの黎明期がかろうじて重なったことは、貴重な産業構造物の存在が後世に伝わるという意味で意義があったのかもしれない。

《100年のアジア旅行 小牟田哲彦》前回
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