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第10回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

第10回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

海外視察の旅(その2)

1899(明治32)年510日午後6時、近衞篤麿一行を乗せた船はイギリスのリバプール港に到着した。そこから列車に乗りロンドンに着いたのは深夜の12時を過ぎていた。

11日、到着早々にもかかわらず、近衞はジャパンソサエティの集会に出席した。松井慶四郎代理公使の誘いを受けてのものである。集会では即席の講演を行っているが、これは当時の彼の考えを知る上でも興味深いものがある。

近衞によれば、外国人は日本人が僅か30年の間に長足の進歩を遂げたと称賛するが、これは喜ぶべきことでもあると同時に憂うべきことでもある。なぜ憂えるのかといえば、この進歩なるものは外見上のものであって精神上のものではないからだという。日本人は模倣能力に長けているため、物質面や外見上の衣服や動作は西洋人とほぼ同様になることができた。しかし、精神面での進歩は難しいものがあるというのである。

その点、イギリス人は海外にあっても「英国流儀」を改めることはない。近衞は次のように述べている。「英人の此性質や大に欽ずべき処にして、英人の最も得意とする処も亦此点にありと信ず。余は……此毅然動かす可らざるの英人の精神に於て、大に模倣せんことを欲するなり」。ここからは日本精神の強調が窺えるが、それは国粋主義というべきものではなく、近代国家の国民としてのアイデンティティの確立を求めたものと見ることができるだろう。

この時の講演は短いものだったと推測されるが、即席でこのような話ができるのだから、近衞は弁論にかなり長けていたのだろう。彼はイギリスに26日間滞在するが、堅苦しい講演を行ったのはこの一回だけであった。

以前にも書いたが、近衞はドイツ留学中の1886(明治19)年9月にロンドンを訪れたことがある。13年を経てからの再訪とはいえ、彼にとっては馴染みを覚える街であったのではないだろうか。近衞は前回と同様に観劇を楽しんでいる。

515日の日記には、「8時より劇場『ライセウム』に赴く。演劇は『ロベスピーア』なり」とある。ライセウム劇場は今日まで200年以上の歴史を持つ有名な劇場だが、当時はヘンリー・アービングとエレン・テリーという有名俳優の共演とあって、近衞も大いに期待していたようだ。あいにく、近衞が行った日はアーヴィングが病気のため、息子のローレンスが代演したということだが、このような演劇を選んで見に行っていたことからすれば、近衞はこの方面でもかなりの通人だったと見られる。なお、19日の日記にはリリック・シアターで「コミック・オペラ」を見たとある。この劇場は今でもミュージカルを専門に上演しているということだ。

イギリス滞在中の近衞は政治家として公式行事への出席のほか、当地の名士の自宅に招待されて食事を供されることもあった。ある富豪の家では、家族と使用人30名ほどが集まって神に祈りを捧げる様子を見て、その信仰心の厚さに感心して次のように記している。「如此もの、毎日曜かくることなしといふ。一家団欒の楽は此辺にあるならんか。実に欽ずべきの家風といふべし」。近衞がキリスト教信仰を好意的に紹介した珍しい事例である。

近衞はイギリスでいくつかの大学を見学している。日記によれば、523日にはケンブリッジを訪れ、トリニティー・カレッジの図書館を見学し、翌日はオクスフォードに行ってオール・ソウルズ・カレッジ、ニュー・カレッジなどを見学し、同校の教授と懇談するなどしている。こうしたことは学習院院長としての務めだった。イギリスでは遊んでばかりいたわけではなかったのである。

近衞は67日にフランスに渡った後、ベルギー、オランダへと向かった。この1週間、彼は各国の議院を見学して回った。ハーグでオランダ議会を傍聴した際には、次のような感想を示している。「外交官席より傍聴す。議場の体裁も頗る整わず、議員等も意気揚らず、甚だ不熱心なるものゝ如し。衰退国の状態は此の如きものか」。非常に厳しい評価と言えるが、これはそれまで見学した国や日本の議会との比較からなされたものであった。

615日にアムステルダムからケルンに渡った近衞は、これから1ヵ月ほどドイツに滞在することになる。かつて青年時代に留学した思い出の国である。到着の日、近衞はボンに移動してかつての恩師であるライン教授を訪ねている。離別から10年ぶりのことであるから、さぞや懐かしかったことであろう。

近衞は77日、ライプツィヒに行き留学時代のもう一人の恩師であるワッハを訪ねている。この日は同行の大内暢三と小原駩吉ともにワッハの講義の聴講を許されたが、講義に先立ち近衞は学生たちに向かって、自分がかつてこの大学で学位を得たこと、そして日本における地位や活動について述べた。すると「学生足踏をもって歓迎の意を表し、又起立して敬礼」したという。近衞としては誇らしさもあっただろうが、学生時代の生活を思い出していたのではないだろうか。

ドイツでは日本人関連者とも会った。弟の津軽英麿は1886(明治19)年からドイツへ留学していたが、あまりに滞在が長いため近衞は事情を話して帰国するよう説得している。また、当地には留学中の学習院関係者が多く滞在していたため、ある晩には彼らと懇親会を開いている。当夜は「トースト」(乾杯)の連続だったようで、近衞も思い切り羽目を外すことができたことだろう。

近衞一行は715日にロシアに入った。サンクトペテルでの最初の数日は観光に勤しんだ。17日には冬宮殿を参観し、「其華麗壮大なる事、ヴェルサイユに越ゆること数等なり」と書いている(パリではヴェルサイユについての感想は記していなかった)。ついで、ロシア正教会のイサアク大聖堂を見物している。この日の夕食はロシア料理で、「珍しき食事」とあるように、近衞にとっては初めてのことだったようだ。前菜のザクースキに続いてウォッカを飲んだとあるが、酒好きの近衞の感想は果たして如何なるものだったか。

7月22日、近衞一行はサンクトペテルブルグからほど近いフィンランドのヴィボルグを観光に訪れた。この日の日記には次のようにある。「此処に至れば魯語を解せず(むしろ独逸語の方便なるが如し)、魯の貨幣通ぜず、魯帝の下に此国あるは奇異の感なき能はず。近比の魯芬間の葛藤、又故ありと知るべし」。当時、フィンランドはロシアの占領下にあったが、決してロシアに同化されていないことを認識したのである。フィンランドは後に独立を達成するが、ヴィボルグは依然としてサンクトペテルブルグの行政地区となっている。この時、近衞が感じた違和感は、国際政治の複雑さを感じ取ってのものだったと言えよう。ロシア滞在はまだ続く。

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