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第9回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

第9回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

海外視察の旅(その1)

近衞篤麿は1899(明治32)年、およそ7ヵ月間にわたる海外視察旅行を行った。今回から、その旅の様子を見ていくことにする。

近衞はかねてから海外視察を希望していたが、それが認可されたのは1898年9月1日のことであった。天皇の御沙汰によれば、翌年3月以降、欧米各国へ10ヵ月以内の視察を許可するというものであった。

1899年3月1日には青木周蔵外相より旅程の概要が提示され、計画も具体化していく。そして、この月の中旬からは送別会が数回にわたって開かれた。貴族院議員一同によるものをはじめ、各政党の共催のものなどがあったが、独乙(ドイツ)ビール会主催のパーティーが開かれているのはいかにも酒好きの近衞らしいものがある。さぞや痛飲したことだろう。

出発は4月1日だった。午前8時過ぎ、新橋駅には山県有朋首相、田中光顕宮相をはじめとして、朝野内外の四五百名の人々が送別に訪れた。その後、列車で横浜に移り、ここで見送りの人々とシャンパンで乾杯して別れ、コプティック号に乗り込んだ。出航は正午12時。近衞に同行したのは東亜同文会の大内暢三(ちょうぞう)と宮内省の小原駩吉(おはら せんきち)の二人であった。

出発に当たり、近衞は数首の短歌を詠んでいるが、そのうちの一首は次のようなものであった。「永からぬ旅にしあれど古里を はなるとおもへばかなしかりけり」。

ちなみに、乗船したコプティック号については、『近衞篤麿伝』(工藤武重著)ではアメリカ船と記しており、拙著でもそれに従っている。しかし改めて調べてみると、船の所有会社はイギリス籍であり、「イギリス船」と改める必要があるようだ。

さて、出航の時から海は大荒れで、近衞らはそれぞれ船室内に引きこもる以外にはなかった。翌日も船は揺れ続けた。2日の日記には次のようにある。

終日室は出でず。殊に小原は嘔吐甚しく、頗る困難の体なり。激浪船室をうつの声、四隣の船室嘔吐の声を聴くのみ。又時として母の苦痛を見て児童の泣く声も洩れ聴こえて、其心細き感じあり。

旅の出だしは地獄絵のような有様であった。小原の船酔いはこの後数日続き、ついには医者に診てもらうことになるのだが、近衞はまったく平気であって部屋で短歌を詠んでいるほどであった。近衞は留学時代から一度も船旅での苦痛を記していないので、元々彼は船に強かったのだろう。

船内では他の日本人乗客とも親しく接した。イギリスに渡って事業を始めようとしている人と出会った際は、必ず成功すると言って励ましている。また、船内で産まれた女児の命名をその父親から依頼された時には、乗っている船の所有会社名(ホワイト・スター・ライン)から取って「ほし子」という名前を与えている。近衞は名門華族の政治家でありながら、気さくな人柄だと思われたことだろう。

ハワイのホノルルに到着したのは4月11日だった。ここは一日だけの滞在であったが、有名な観光地を歩くなどしたほか、滞在中の日本人から経済状況についての情報を得ている。ハワイを離れる際に近衞が気が付いたことは、当地から乗船する人たちが、男女とも帽子や襟元に花を飾っていることだった。おそらく、ハワイの人々の風習を西洋人が真似たものだろうと彼は推測している。近衞の観察眼は意外に鋭いものがある。

船は17日にサンフランシスコに到着した。当地では、療養のため近郊に滞在していた新渡戸稲造が訪ねて来て、陸奥広吉領事らとともにゴールデン・ゲート・パークに遊ぶなどしている。新渡戸はこの年、有名な『武士道』(英語版)を出版するが、おそらくそのことも話題になったと推測される。この日の夕食は小川亭という店でとった。近衞は「立派ならざれ共、日本割烹店の体裁に出来たり」と記している。この店は日本人の間では評判だったようだ。

19日午前、オークランドに移り大陸横断鉄道の列車に乗り込んだ。日記からは、車中から見える山岳地帯の雄大な景色に目を奪われる様子が窺える。そして、夜になって近衞は和服に着替えた。日本とは違って、欧米の列車はコンパートメント個室であるため、着替えも不自由なくできたのだろう。すると、通りかかった乗客はみな和服姿を珍しがって眺めたという。

翌日、近衞は同行の二人も和服に着替えさせた。この服装が乗客の関心を惹くことが分かったからだろう。案の定、彼らの和服姿は受けたようだ。日記には次のようにある。「車中妙齢の婦人等、皆撮影器械を有す。余等に乞ふて撮影したるもの四回なり」。近衞は欧米人の東洋趣味をくすぐる術を知っていたのである。

一行は22日にシカゴに到着するが、車中で読んだ『シカゴ・デイリー・ニュース』紙には、近衞の写真とともに視察旅行についての記事が掲載されていた。自身がかなり注目されていることを知って、近衞としては満更でもない思いがしたことだろう。その後、ワシントン、フィラデルフィアでは議会やシティ・ホールなどを見学した。ニューヨーク滞在中にコロンビア大学やハーバード大学を見学しているのは、学習院での教育に資するためだったろう。他方、観光にも怠りなく、30日にはナイアガラの滝に出かけている。

近衞は旅行の先々で日本人会による歓迎の宴を開かれた。宴会に出ることは決して嫌いではないのだが、時にはつまらないものもあった。5月2日、ニューヨーク在住日本青年会の歓迎会が行われた。それは20数名の小規模なものだったが、何人ものスピーチが延々と続き、中には近衞への賛辞の余りに追従に聞こえるものもあって、近衞にとってはありがた迷惑に思えるほどだった。そこで彼は御世辞の意を込めて、次のような短歌を詠んでその場で披露した。

「とつ国にあるもわすれてむつびあふ けふのまどひはたのしかりけり」。だが、出席者の中にはこれを御世辞として理解できる人はなかっただろう。それにしても、その場の状況に応じて、すぐさま歌を詠める近衞の才能にはすばらしいものがある。

翌3日、近衞一行はイギリスに向かって出航した。海は「至て平穏なり」と日記にはあるが、小原は部屋を一度も出てこなかったとされている。これは想像だが、日本出発の時以来、彼は船旅恐怖症になっていたのかもしれない。次回はイギリスに渡ってからの話になる予定だ。

《近衞篤麿 忙中閑あり》前回
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