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第11回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

第11回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

海外視察の旅(その3)

ロシア滞在中の近衞篤麿一行は、1899(明治32)年728日にモスクワに到着した。当時のモスクワは副首都のような存在であった。近衞らは当地にいた4日間をほとんど観光に費やした。彼らは聖母昇天大聖堂やアルハンゲルスキー聖堂、そしてナポレオン軍撃退ゆかりの地などを見学している。

クレムリン宮殿を参観した際には、その荘厳さを称えながらも次のように記している。「古代の魯国風建築にして西欧とは大に趣を異にし、彩色の配合等甚だ嗜好の幼稚なるを覚ふ」。美術に造詣の深い近衞ならではの批評である。

ロシア滞在中の近衞は、政治に関する記述は全く残していない。この時の彼は、翌年7月以降の極東ロシアの南下によって日露関係が緊張し、自からが反ロシア活動の中心人物となることなど想像もしていなかった。唯一、モスクワで不愉快さを覚えたことを挙げるとすれば、それは近衞らが宿泊したホテルでトコジラミに刺されたことだ。日記には、「モスコウ第一の旅館此の如し、驚くべし」と書き、ホテルの責任者に厳重な抗議を行っている。だがもちろん、これが彼のロシア嫌いの原点であるはずはない。

その後、オデッサ、ルーマニアを経て、811日にトルコ(正式にはオスマン帝国)に入った。トルコでは、近衞は皇帝(スルタン)に謁見する栄誉にあずかることができた。816日の日記には次のようにある。

今夕晩餐を「スルタン」陛下より賜ふ事なれば、余と小原は大礼服、津軽、大内、中村は燕尾服着用、馬車にて(馭者は正服なり)参内、式武官某玄関迄出迎へ出で、導かれて溜室に至る。[中略]有名なるオスマン・パシャも此席にあり。やがて我一行及び独医等、導かれて別室に至る。此時「スルタン」、数人の皇族を随へて出御あり。

近衞が緊張感をもって謁見に臨んだ様子が窺える。当時の皇帝はアブデュルハミュト2世であった。皇帝は各人と挨拶を終えた後、一同を率いて食堂へ向かったが、この時「君が代」の吹奏があった。近衞は国賓待遇で迎えられていたのである。おそらく、皇帝は近衞が天皇家に最も近い家柄であることをあらかじめ知っていたのだろう。

食堂では近衞は皇帝の隣の席で、総理大臣と相対して座した。話題は様々に及んだのだが、中でも皇帝は日本の皇室との関係について熱心に述べた。皇帝は近衞に向かって、「室内の花瓶を指して、日本皇帝陛下の賜物にして如此愛玩するなり、此旨を親しく陛下に言上せよ、又両国の間に条約を締結して、互に公使を派する事を熱望するに付、此希望をも陛下に申上げよ等」と述べている。トルコ皇帝が日本との関係を重視していたことが理解される。

1887(明治20)年以来、日本・トルコ両国の皇室は親しい間柄にあった。この年、小松宮彰仁親王がヨーロッパを歴訪した際にイスタンブールを訪れ、アブデュルハミュト2世に謁見したのが始まりだった。この時の歓待に感謝して、翌年、明治天皇は親書と贈り物を皇帝に送っている。室内にあった花瓶もそれに含まれていたのだろう。

近衞のトルコ皇帝への謁見は、海外視察旅行における一大イベントであったといえる。その後、18日には毎週金曜日に行われる皇帝の寺院参拝式に出席した。参列者の様子や儀式の進行などについて、近衞は日記に詳しく書き残している。これは、単に物珍しさからによるものではなく、その荘重さを記録しておきたいとの気持ちからだったと推察される。なお、この度の訪問を記念して、近衞にはトルコ皇室から勲章が授与される運びとなった。本人にとっては、まことに名誉なことであった。

近衞の一行は819日にトルコを離れた。これから後は、ほとんど物見遊山の連続である。彼らはギリシャを経てイタリアに入り、29日にはティヴォリのヴィラ・アドリアーナを参観した。そこは古代ローマ帝国時代から上層階級の保養地だったことで知られ、近衞はその素晴らしさに魅了されたようで、次のように記している。「宮殿は勿論、書庫、浴場、演技場、宝庫、病室に至る迄皆名残を止めて、人をして坐(そぞ)ろに其壮大に驚かしむ」。また、翌日にはバチカンの美術館を訪れたが、見るべきものがあまりにも多いことを知り、時間の都合から見学を諦めざるを得なかった。

ヨーロッパを離れるべく最後に立ち寄った国はフランスだった。99日夜、近衞はマルセイユに到着したが、まもなく彼は街の様子が異様であることに気がついた。日記によれば、「市中所々に巡査の整列するあり、又路人を制するあり、而して人の群衆も亦頗る甚だし。其何の故たるを知らず」とある。後に知ることになるのだが、それは1894年に起きた反ユダヤ主義の陰謀事件であるドレフュス事件によるものであった。

よく知られているように、この事件はユダヤ系のドレフュス大尉がドイツのスパイであるとの嫌疑をかけられ、本人の無罪の主張にもかかわらず軍法会議で有罪判決を受け、無期流刑となったというものである。判決には異論が多く、彼を無罪とする動きもあったが、18998月に開かれた再審でも有罪判決が下されていた。そのため、フランス国民の中には抗議の声が上がっていた。そのような中、近衞はマルセイユでの抗議活動に遭遇したのである。今日からすれば彼は貴重な体験をしたと言えるであろう。

9116時、一行を乗せた船はアジアに向けて出航した。同月25日、最初の寄港地であるコロンボに到着した。近衞はこの日、次のように記している。「土人の物売蟻集する事例の如く、小童の水中に銭を投ぜられん事を乞ふ事例の如く」云々。

子供が小銭をせびる様子を「例の如く」と書いたのには訳がある。それは、近衞が青年時代の1885(明治18)年にヨーロッパ留学の際、途中で立ち寄ったシンガポールで同様の光景を目にしていたからである。当時の近衞は、船上から硬貨を放り投げ、子供らが水中に潜って拾う様を見ては「旅中の善き慰み」にしていたが、この時は果たしてどうだったのだろうか。今や要職にある近衞が、かつてのような行いはしなかったと信じたい。

近衞一行はコロンボで船を乗り換え、シンガポール、サイゴンを経て中国大陸へ向かった。中国での行動については次回に述べていくことにしよう。

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