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〔25〕「日帝時代の日本語」による平成世代とのコミュニケーション 小牟田哲彦(作家)

〔25〕「日帝時代の日本語」による平成世代とのコミュニケーション 小牟田哲彦(作家)

〔25〕「日帝時代の日本語」による平成世代とのコミュニケーション

2000年代の初め頃までは、韓国を1人で旅行していると、戦前に日本語教育を受けた年輩者から声をかけられることがたくさんあった。確かに、1970~1980年代頃の韓国旅行ガイドブックでは、「一定年齢以上の韓国人には日本語が通じるから言葉の心配はない」と書かれていたのだが、「日本語が通じる」ことと「実際に日本語でコミュニケーションをとってくれる」かどうかは別問題である。日本統治時代に対しても一定の肯定的評価が定着している台湾と異なり、韓国では、当時のことを公然と肯定する社会的な雰囲気はほとんどない。私が日本の高校レベルで受けた日本の近現代史の授業内容も、似たようなものだった。

だから、当時70代から80代くらいのお年寄りが自ら日本語で日本人旅行者の私に話しかけてきて、やがて親しくなって戦前の話を聞かせてもらうことは、中身は古い話なのに、私にとっては常に新鮮な体験であった。中には一期一会にならず、その後も手紙の交換を続けたり渡韓のたびに会ったりしたご老人も1人や2人ではない。ソウルの高級マンション街の中にある広くて豪華な自宅に招いていただいたこともある。

歳月を経れば、そうした日本語世代との交流は必然的に少なくなる。初渡韓のときは気ままな大学生だった私も、だんだん年相応に忙しくなったり、旅行先がアジア以外の地域へも拡大したりしたこともあり、そうした繫がりは徐々に少なくなってきた。悲しくも、やむを得ないことではある。

ソウルに住む李さんは、そうした繫がりを今でも保てている貴重な1人である。初めて出会ったのはサッカーの日韓ワールドカップ共催(2002年)直後で、それから20余年、渡韓のたびにお会いし、連絡が途切れずにいる。彼の故郷は今の北朝鮮に属する江原道の福渓というところ(画像参照)で、日本統治時代は交通の要衝として栄え、朝鮮随一の景勝地として人気を集めた金剛山にも近かった。そういう話題は私の得意とするところなので、私とはよく話があう。彼にしても、自分の故郷の(日本統治時代の)話を韓国人以上によく知る日本人の若輩者が珍しかったに違いない。


見知らぬ日本人観光客に日本語で声をかける開放的な性格に加えて、90歳を超えた今でも、李さんは電子メールやSNSを日本語で使いこなす積極性も持ち合わせている。東日本大震災のとき、安否を心配してくれる連絡もメールだった。海外の友人・知人と手書きの手紙やクリスマスカードをやり取りする習慣は20年前より明らかに減った中で、李さんとの交流が続いている大きな原因だと思う。

そしてこの春、私は自分の子供たちを初めてソウルへ連れていき、李さんに紹介した。21世紀生まれの彼らにとって、日本統治時代に朝鮮半島で日本語教育を受けた韓国人と日本語で直接食卓を囲む体験自体が初めてである。しかも、李さんの流暢な日本語は、戦前の日本語教育がもとになったまま、終戦と同時に基本的にアップデートされていない。つまり、第2次世界大戦よりも前の日本人(や朝鮮人)が話していた、約80年前の日本語でもあるのだ。

健康で長生きしてくれた李さんのおかげで、20年くらい前までは韓国旅行中の日本人旅行者にとってそれほど珍しいことではなかった日本語世代との直接のコミュケーションを、私の次の世代にも体験させることができた。K-POPに関心があって韓国に行きたがっていた中高生時代のささやかな旅行体験が今後、どのような印象となって残っていくのかはわからない。ただ、「また会って、もっと話を聞いてみたい」との娘の感想を聞くと、単なる観光旅行中の出来事であっても実体験に勝るインパクトはないと痛感する。何より私自身が、20代の頃に韓国全土でお会いした老韓国人たちとの邂逅体験の影響を、4半世紀以上経った今なお引き継いでいるのだから。


《100年のアジア旅行 小牟田哲彦》前回

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