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第15回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

第15回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

ドイツでの近衞兄弟

 以前にも書いたように、近衞篤麿がヨーロッパ留学を許可されたのは1884(明治17)年9月のことだった。当時、彼は自分だけでなく、二人の弟をも共に留学させたい希望を持っていた。

二人とは英麿(ふさまろ)と鶴松で、英麿はすでに姻戚関係にあった旧弘前藩主である津軽承昭の養子となっていた。また、鶴松は真宗高田派管長である常磐井堯煕(近衞忠煕の第七子、つまり彼の叔父に当たる)の養子となり、後に堯猷を名乗ることになる。しかし、父忠房が73年に亡くなった後、孫たちの面倒を見てくれた高齢の祖父忠煕(当時77歳)を一人にするわけにはいかないとして、この時は彼らの留学を願い出ることはなかった。

近衞は18854月に日本を出発し、7月にオーストリアに到着する。そして、ウィーンでドイツ語を学んだ後、ドイツに移りボン大学に入学することになる。近衞はこの間も弟たちの留学のことを祖父に相談していた。103日付の手紙には次のようにある。

「付ては英麿、鶴松の義に候。両人共最早十五歳にも相成、殊に英麿は小学科も相成[中略]此際に洋行すれば大に都合と存候。[中略]今日迄とは違ひ此後は人との交際も出来間敷と存候間、ちとでも洋行の早きが宜敷と存候」。

また、一部には鶴松はいずれ僧職に就くのだから海外留学は無益だとする意見もあったようだが、近衞は将来の宗教指導者となるには「西洋諸国の宗教の有様抔を見究めねばならぬ」として、強く留学を勧めたのである。

祖父から留学に同意するの旨の手紙が届いたのは同年1月のことだった。祖父宛ての115日付の手紙には次のよう記されている。

「英麿の洋行の義御同意の趣、小子大喜に御座候。鶴松の義は、申上は致候得共未だ早き様に存じ、常磐井様の方へは申上げ置候処、尊公にも未だ早しとの御意有之、先づこれは暫時見合の方可然と存候」。

英麿には許可が出たが、鶴松は時期尚早との理由で見合わせとなったのである。しかし、二人とも1872年生れなので、この理由には合点がいかないものがあるが、津軽家と常磐井家では考え方が違ったのだろう。また近衞は。若い弟たちに留学を勧める理由として、以下のようなことも挙げている。

「洋行は一年でも早きが宜敷候。西洋人の日本人を見下るは大人子供の差別無御座候間、大人に成てからは実に堪難き口惜しき事も有之、子供の間なれば其辺も格別気にならず、稽古の為にも宜敷と存候」。この文面からは、近衞自身も「口惜しき事」すなわち差別を受けたことが感じ取られる。

津軽家から留学許可を得た英麿は、1887(明治20)年11日、ベルリンに到着した。翌日、ホテルで付き添いの者と、ボンにいる近衞に電報でも打とうかと話をしている時にドアを叩くものがあった。そこで、「戸を開けたところ見知らぬ日本人が二人が立っていて、突然一人が何時着いたかと問うたので、篤麿であることに気付き、握手して互いに無事であることを喜び合った」という(羽賀与七郎『津軽英麿伝』)。

近衞が日本を離れてから2年も経たないのに、誰だかわからなかったというのだから、この間に彼の風貌は変ったということなのだろうか(ちなみに、彼はまだ髭を伸ばし始めていない)。この後、留学許可を得てベルリンにいた鶴松とも合流して、一行はボンに移った。なお、常磐井家が鶴松に渡独を許可した経緯はわかっていない。

ボンでは近衞が下宿していた指導教授であるライン教授の家にしばらく仮寓した後、隣家を借りて三人で同居して自炊生活を送ったという。この年の4月には、近衞が春季休暇に入ったことでマインツやフランクフルトなどドイツ西部を旅行している。また、夏にはライン教授の案内のもと、アルプス山脈踏破の旅を行った。この時、ラインが旅費が節約を図り、一行の疲れを無視した強行軍ゆえに、近衞をはじめ皆が不平を漏らしたことは、本連載第7回「アルプス旅行の記事」で述べたところであるが、肥満の英麿には殊に辛かったということである。

また、近衞の誕生日にはボンの寓居で日本料理を作って祝ったことがある。英麿は養父の津軽承昭に宛てた手紙で、その日のことを面白おかしく報告しているので、以下に紹介しておこう。

「(前略)翌二十九日は篤麿方にて誕生祝宴相催候。大君の誕生日は二十七(ママ)日に御座候得共、都合により延引致候。品川(弥一)・池田(秀男)・大田(稲造)の三氏も来賓とし、小生等は少々前刻より出張し、胡瓜を切るやら豆の皮をむくやら、なんやらかんやら、どんちゃん、がたがた、ごとごと、ぢゃんぢゃん……すととこてんと大騒動にて、働いては叱られ、叱られては働き、先づ大概料理も出来、鰻を殺すことに相成り、なかなか鰻屋のやうなる手際には行かず、つかまい様とすればぬるぬる、つかまい様とすればぬるぬる、釘を刺すやら、小刀で叩くやらで、三時頃漸く出来候。品川は素麺を持参して冷素麺を作るとて大周旋し、一同満腹致し、動くこともならぬ程に相成、その料理は豆の卵の吸物、鳥の甘煮、鰻の蒲焼、豌豆の煮たの、胡瓜もみ、冷素麺などに御座候。……聞けば、小生の作りたる分は迚も人間のたべ候わけに行かず、先づ夏虫の餌にでも致すより外なしと申し、一同大笑致し候」(白柳秀湖『近衞家及び近衞公』)。

この時、英麿は15歳であったが、描写力に富んだ文章で、一読してその日の情景が目に浮かんでくるようである。なおこの手紙には、当日は弟も含め皆で酒を飲んだことも記されている。以前も書いたところだが、近衞家は飲酒に寛容だったことがここからもわかる。

留学時代の近衞には、弟たちのことについて書き残したものはないが、1888(明治21)年4月にライプツィヒに移るまでの彼らとの生活は楽しかったことだと想像される。ここに示した誕生日の宴はその最たるものだったのではないだろうか。

近衞は18909月に帰国するが、弟たちは後も長きにわたってドイツに滞在する。英麿はギムナジウムを卒業後、ボン大学、ベルリン大学などで法律・政治・経済学を学び、1904(明治37)年に帰国した。英麿については1965(昭和40)年に前記評伝が出版されているため、その生涯を知ることができる。他方、鶴松すなわち常磐井堯猷については資料に当たることが出来ず、インターネット上の情報から、ストラスブール大学でマックス・ミュラー博士に17年間師事し、哲学、梵文学を専攻し、イギリスなど欧州各国を歴訪したこと、そして帰国後は京都帝国大学文学部教授となり、養父の後を受け真宗高田派の館長となったことを知り得るだけである。

 
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