1. HOME
  2. 記事・コラム一覧
  3. コラム
  4. 〔24〕鮮満直通急行「ひかり」の命名者は韓国人だった 小牟田哲彦(作家)

記事・コラム一覧

〔24〕鮮満直通急行「ひかり」の命名者は韓国人だった 小牟田哲彦(作家)

〔24〕鮮満直通急行「ひかり」の命名者は韓国人だった 小牟田哲彦(作家)

〔24〕鮮満直通急行「ひかり」の命名者は韓国人だった

平成4(1992)年、東海道新幹線の新しい列車の愛称が「のぞみ」に決まり、それまで最速だった「ひかり」よりもさらに速い超特急としてデビューした。その当時、「のぞみ」と「ひかり」の列車名の組合せが、日本統治下にあった戦前の朝鮮半島を走る国際急行と同じであることをあえて紹介するメディアは少なかった。ましてや、戦前の「ひかり」という列車名の命名者が当時の韓国人(朝鮮人)であった史実は、戦後の日本国内の報道では見かけない。

戦前の「ひかり」は、朝鮮半島南部の港町・釜山から京城(現・ソウル)、平壌を経て、建国まもなく満洲国へ直通して奉天(現・瀋陽)へ直通する国際急行の愛称として、昭和8(1933)年に誕生した。流れ去る景色を楽しめる展望デッキとサロンルームを持つ1等車(画像参照)や、当時は高級品とされた洋食を供する食堂車を連結するこの豪華列車の名称を、朝鮮総督府鉄道局(鮮鉄)は一般公募したのだ。同年1月27日の釜山日報は「釜山奉天間 スピード列車に命名」「一般から募集して堂々たるものを‼」という見出しを掲げ、「最も斬新なものを選ぶため一般から募集して人氣を集めた上で命名する」という鮮鉄の方針を伝えている。

しかも、3月4日付の朝鮮新聞によれば、1等当選者に賞金30円が出る懸賞募集とのこと。当時、大卒銀行員の初任給は70円程度とされていた(週刊朝日編『値段史年表 明治・大正・昭和』朝日新聞社、昭和63年)から、かなりの高額である。ちなみに、朝鮮新聞は当時の朝鮮半島で発行されていた日本語の新聞だが、朝鮮語の日刊紙である毎日申報の同日付紙面にも「超特急列車の名称懸賞募集」という同内容の記事が出ており、日本語、朝鮮語のどちらでも応募できたことが窺える。

komuta240501(第24回).jpg

わずか半月ほどの応募期間に受け付けられた投票総数は13,668件。最多得票は「金剛」の871票だったが、2位の「隼」、3位の「鶴」を抑えて4位の「ひかり」が採用されたことを、3月29日付の朝鮮新聞が報じている。「『ひかり』という言葉は音にも明るいし又意味としても『光は東方より』等如何にもあけ行く満洲に對し殊に時局柄東洋の平和を背負つて立つ日本として意義ある言葉」との審査員の説明は、いかにも大日本帝国時代らしさを感じさせる。また、「『ひかり』は速度のシンボルであるしその速さにしても特急の名にふさわしくはなからうか」という審査意見は、戦後の東海道新幹線の「ひかり」の由来とほぼ共通していて興味深い。

気になる1等賞金は、「ひかり」と投票した366名の応募者のうち、抽籤によって全羅北道の羅炳淳氏が手にしたとのこと。初代「ひかり」の命名者代表として日本の鉄道史に名を残すこととなった同氏は、その名の提案理由として、「新最特急の速き事光の如し」「暗き鮮満交通界に光の光明を與ふる意味」という2点を挙げていたという。

この記事のわずか3日後に、ひらがなで「ひかり」と刻まれた真鍮製のテールマークを最後尾の展望客車に掲げた新急行が釜山桟橋駅を出発。翌日(4月2日)付の朝鮮新聞(夕刊)には、そのニュースが写真付きで掲載されている。こうして朝鮮半島に誕生した初代「ひかり」は、その後、満洲国の首都・新京(現・長春)まで、さらには北満のハルピンまで運転区間が延長され、朝鮮と満洲を結ぶ最優等列車として終戦直前まで運行され続けた。


《100年のアジア旅行 小牟田哲彦》前回

《100年のアジア旅行 小牟田哲彦》の記事一覧



タグ

全部見る