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第16回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

第16回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

ドイツ留学雑録

近衞篤麿の留学当時、ボン在住の日本人は極めて少なかった。そのため、同地を訪れた日本人には近衞を頼って来る人も多かったという。近衞もそれを拒むことなく何かと面倒を見たため、多忙な日が多く、知人たちは彼を「ボン在勤日本領事」と呼んだということである。

近衞は日本人ばかりでなく、ドイツ人にも知られていたようだ。ボンには貴族出身者による「プロシア会」という社交団体があったが、近衞は推されて客員として迎えられ、しばしばここで「会飲高談」したという。伝記では、外国人がこのような待遇を受けることは、極めて異例なことだったと記している。また、彼がまだ20代前半の若さだったということも異例と言えるだろう。

ボン滞在中に、近衞が2人の弟を留学させたこと、彼らと誕生日の祝宴を開いたことは前回述べたところだが、この時、近衞本人が何をしていたのかは書かなかった。実は、弟たちが「なんやらかんやら、どんちゃん、がたがた」と料理をしている間、彼はそれを見ていただけなのだ。後日、祖父に宛てた手紙には次のようにある。

「小生は何も芸なければ肉肴野菜などを買ひに行き、大根を提げて宿へ帰り来りたる時などは、何となく気がとがめ大に困り候。併し、久振の日本料理にて大に好味を覚へ候。是も洋行中の一話と存候」。

近衞はただ飲食するだけでは申し訳ないと思ったのか、具材調達を買って出たようだ。若き日とはいえ、近衞が大根を提げて歩く姿などは、めったに見られるものではないだろう。しかし、英麿(ふさまろ)が書いた手紙(前回参照)には大根を使った料理は見当たらない。さて、当日はどのようにして食べたのだろうか。

ここでふと思ったのだが、ドイツ料理に大根は使うのだろうか。そこで、ネットで調べてみたところ、けっこう大根料理があるようだ。その1つに「涙大根」というものがあった。それは、大根を薄めに輪切り、または半月切りにしたものの上に、塩をまんべんなく振りかけるだけという簡単なものだ。酒のつまみになるというので、近衞も食べたことがあるかもしれない。ちなみに、「涙」の由来だが、振りかけた塩が大根の水分を吸い上げて、表面に涙が溢れたようになるからだという。

さて、近衞は弟たちと同居すること15カ月にしてボンを去りライプツィヒ大学に移る。伝記ではその理由を、ボン大学はドイツ有数の大学ではあるが、当時この大学には多くの貴族富豪の子弟がいて、彼らは飲酒遊惰に耽り、学問に励む者が非常に少ないため、学業の進歩の妨げになること、そして彼らの相手をしようとすれば多額の金銭を費やすことになるためだとしている(工藤武重『近衞篤麿伝』)。

これを機に、近衞は弟をそれぞれ別居させた。祖父に宛てた手紙には次のように記されている。「付ては、英(麿)鶴(松)両人事は是迄一家に住居致さし候処、兎角日本語計(ばか)り話して、語学の為且つ一般の事情等を知るにも為に宜しからず候間、此度両人を分つ事に相定め候」。弟たちへの教育的見地からの決断であった。

ライン博士の世話によって、英麿はコブレンツの対岸にあるエーレンブライストシュタインに、鶴松はノイウィードに移って、それぞれドイツ語の習得に努めた。英麿は同地にあって2年間の研鑽によって、ドイツ語の進境見るべきものがあり、ギムナジウム受験の学力がついたため、再びボンに戻ってライン博士の家に寄寓したという。

近衞はライプツィヒ大学に移った後も、長期休暇の時期には国内外の各地を旅行したようだ。1888(明治21)年8月にはロンドンに赴き、公使館職員だった岡部長職(後に貴族院議員、東京府知事を務める)とともにスコットランドを旅行している。また、翌年8月にはフランスに渡り、パリで開催されていた万国博覧会を参観した。フランスには日本人留学生も多くいて、博覧会見物に来ていた観光客の中にも知り合いの人もいた。近衞は彼らと旧交を温めるとともに、日本の近況などを聞くことができた。

パリ博覧会を参観して、近衞はその規模の壮大さに驚嘆している。祖父への手紙の中で、彼は次のように記している。「巴里博覧会は実に驚くべき大博覧会にして、会場広ければ一方より一方に行くに鉄道にて往来致し候位、これにても其広大なることは分り候」。博覧会には日本も出展しており、これは評判が良かったらしい。しかし、「日本人の中には余り感心出来ぬ処之あり」とも書いている。何が感心できない事だったのかは不明だが、或は日本人の面目を汚す行いを目にしたのかもしれない。

この年の3月に開業したエッフェル塔には驚いたようだ。近衞は次にように述べる。「例のアイフル塔は高さ六百(ママ)メートルにて、東寺塔抔の五六倍の高さに有之、小生は当日曇天なりし故眺望も悪からんと思ひ、一階迄登り候。夫(それ)さへ尋常の家(五六階もある家)を犬小屋の様に見下す位に御座候。仏国人の壮大さを好む事も、これが一の証拠と云ふて宜敷と存候」。もちろん、「一階」とは第1展望台のことだ。近衞はこの大建築物を見て、フランス人とドイツ人、延いては日本人との気質の違いを感じたのかもしれない。

パリでは、かつてヨーロッパ留学に向かう船中で同行した西園寺公望と会うことができた。西園寺は1885(明治18)年、オーストリア=ハンガリー帝国の公使として赴任したのだが、この時は駐ドイツ公使兼ベルギー公使となっており、1年の3分の1はパリで過ごしていた。そこで、近衞はドイツに帰る際、西園寺をライン地方への旅行に誘い、数日間を共にしている。ちなみに、これより30年後、近衞の長子・文麿はパリ講和会議に主席全権として派遣された西園寺の随員となり、さらに政治家となってからはしばしば助言を受ける間柄となる。

その後、近衞はボンに立ち寄って知人を訪問し、弟たちを連れてライプツィヒへと戻った。久し振りに三兄弟が一緒になったのだが、新学期を目前に控えていたため、弟たちは1週間ほどで帰って行った。祖父への手紙には、「両人共大人らしく相成、髯抔もはえかけ、屈強なる若者に相成候」とある。再会まで僅か1年ほどであったが、この間の弟たちの成長には著しいものがあり、しかも学業も順調とあって、長兄たる近衞にとっては喜ばしいことであっただろう。

 
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