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第17回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

第17回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

初期の雑記から

近衞篤麿の初期の著作を集めたものに『螢雪餘聞』(全16巻)がある。これは、1878(明治11)年から88年、すなわち15歳から25歳までの間の見聞や旅行記を収録したもので、1939(昭和14)年に陽明文庫から出版された。同書に含まれた文章は長短様々で、内容も多岐にわたっている。言語学者の新村出(いずる)は、これを「霞山公の青年時代に於る飽くなき知識欲と撓(たわ)まざる向上心の非凡なるを想はしめ、その多面的なる感受性と細心なる注意力との絶大なるを推知せしめ」るものと評価している。

『螢雪餘聞』に収められた記事のほとんどは執筆時期が記されていない。そのため、青年期の近衞の考えの発展・推移を正確に追うことはできないのだが、彼の関心の所在を知るためにも、いくつかの文章に目を通しておくことは無駄ではない。今回は2編の文章を選んで紹介しておくことにしたい。

近衞は14歳にして宮内省出仕を命じられて京都から東京に移っていた。しかし、以前に述べたように、宮仕えとは言っても、それは名義上のものであって、実際は学問に専念するところとなっていた。

当時の宮内官僚に米田虎雄という人物がいた。彼は1839(天保10)年生まれというから、近衞より24歳年長ということになる。78年には侍従長(兼陸軍中佐)に就任している。同じ宮内省勤務ということもあり、近衞は米田と直接会う機会があったようだ。近衞によれば、この人物には「禽魚を好むの奇癖」があり、自宅に数百匹のメダカを飼っていたという。『螢雪餘聞』第1巻には、米田について書いた「メダカノコト」という一文が収録されている。

近衞は米田から聞いたメダカの話として、次のように記している。「其色は三種にて白赤黒なり。其状は鯉魚に異ならず、唯大小の差あるのみ」(原文はカタカナ、句読点なし。以下同じ)。そして、白と黒との間にできた子メダカは浅黄色となり、赤と黒との子は赤地に黒点があるもの、あるいは赤黒混合のものとなるいう。何とも怪しげな説である。

もっと奇妙なのは、三種のメダカの戦いの話である。米田の説は次のように続く。「之を三四ヶ所に区画して置けば、互に其境を出でず。若し之を他の屯所に混入すれば、相戦ふて止まず」。メダカは体の色ごとに同族意識を持つというのだ。そして、同族同士は助け合うのだが、異族と戦う時は二日の長きに及ぶと述べている。

しかも一族の中には指導者メダカがいるという。曰く、「其中に威容共に備り、自ら将帥の任あるが如きものありて衆を指揮し、部卒は其命を受けて奔走するが如し」。そして、ご丁寧にも最後には、「之を目撃せし人は怯(おそ)らくは多からざるべし」と付け加えている。

米田が魚を飼うことが好きだったことは、あるいは事実かもしれない。しかし、その生態についての説明、すなわち体の色が三種類で、異色同士で戦い合うということ、そしてその中にリーダーがいるなどということを信じる人はいないだろう。近衞もこの説を信じたとは到底思えない。

とすれば、このメダカの同族意識についての話は、米田が近衞に冗談として述べたものではないだろうか。推測を逞しくしてこの文章を解釈すれば、これは侍従長の立場にある米田が、まだ駆け出しの小吏(立場上であるが)を相手にもっともらしく仕立てた話を、近衞があたかも真に受けたかのように書き残したものと考えられるのである。

話は変わって、アメリカのエドワード・S・モースが日本の人類学・考古学の基礎を作ったことはよく知られている。彼は1877年6月から79年9月まで日本に滞在し、この間、東京大学理学部の教授を務めるなどした。モースの日本滞在中の最大の功績は大森貝塚の発見であったが、78年6月には浅草の集会施設・井生村楼において「大森村にて発見せし前世界古器物」と題する講演を行っている。この時の聴衆は500人を超えたというが、実はその中には近衞も含まれていたのである。

まだ15歳だった近衞が、当時の考古学の先端を行く講演の内容をどれほど理解できたかは分からない。しかし、彼の知的好奇心が旺盛だったことは確かだと言えよう。前述「メダカノコト」のすぐ後に、モースの評価を話題にした「モールス氏ノ話」という短編記事が載せられている(かつて、彼の名は「モールス」とも呼ばれていた)。

この文章によると、当時のアメリカの新聞記者たちはモースの業績を批判して次のように述べたという。「モールスは元と漁人の子にして、常に海辺に魚介を拾ひて遊びしものなれば、少しく其名位は知る可きも、動物進化のことなどは知るべき様なく、又之に騙せらるゝ日本人は愍笑すべきものなり」。

これに対して、当時アメリカ留学中の斎藤脩一郎という人物が、次のような反論の投稿を行ったとされている。「記者輩はモールス氏の漁児たりしを以て学識なし云へど、記者輩が日夜信仰する所の耶蘇は牧羊の子ならずや。漁児の子は不学にして牧羊者の子は尊崇すべしと、豈此の如きの理あらんや。日本人を笑ふ記者こそ笑止なれ」。そして、この投稿に対する反論はなかったとして、近衞は「面白き話と云ふべし」と結んでいる。

しかし、モースの父親が漁師だったという事実はない。父親のジョナサン・モースはかつて毛皮商を営んでいたのであり、彼を漁師の子とする説があったとすれば、それはデマに近いものであったと言うべきだろう。大学卒の学歴がなかったにもかかわらず、モースは31歳で大学教授に就任しており、そうした人物にケチをつけた人がいたとすれば、まともなマスコミ人ではなかった可能性がある。

それでは、これに反論を行った日本人についてはどう考えればよいのだろうか。この時代、アメリカに留学する人物は限られたエリートに違いないと思って調べてみたところ、「斎藤修一郎」という人物が見つかった。脩と修が違うだけである。この人物は文部省第一回海外留学生としてアメリカに派遣され、1878年6月にボストン大学法科を卒業して、後には農商務次官を務めたという。反論記事を投稿した人物が実在したとすれば、それはおそらくこの人であった可能性が高い。

近衞にとってアメリカのデマ記事は、あたかも自分が参加した講演会を否定するものとして感じられたことであろう。その意味で、高橋の反論は「面白き話」だったのである。このモースをめぐる出来事は、近衞にとっては若き日の些細な一コマに過ぎないだろう。しかし、この記事にある高橋の反論を快しとする姿勢には、当時の素朴な民族主義的な感情が滲み出ているように思われるのである。

 
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