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第245回 クワイ河鉄橋のあるカンチャナブリ再訪 伊藤努

第245回 クワイ河鉄橋のあるカンチャナブリ再訪 伊藤努

第245回 クワイ河鉄橋のあるカンチャナブリ再訪

昨年の晩秋、タイ東部のカンチャナブリを訪問する機会があった。カンチャナブリは隣国ミャンマー(ビルマ)の国境地帯にあり、アンダマン海に面した同国のダウェー経済特区の開発が進んでいるのを視察するのが目的だった。深海港を建設予定のダウェーはこのカンチャナブリから100キロ以上離れているが、国境検問所のタイ側に経済特区プロジェクトの前線拠点があるので、その拠点で関係者の話を聞くことができた。取材の成果は、霞山会の月刊誌『東亜』20141月号に掲載したので、関心のある方はそちらに目を通していただきたいが、今回のカンチャナブリ訪問は筆者にとって、ちょっとしたセンチメンタル・ジャーニー(感傷旅行)となった。

カンチャナブリはご存知の通り、戦争映画の名作「戦場にかける橋」(1957年=昭和32年=公開の英・米合作映画)の舞台となったクワイ河鉄橋のある町として知られる。国境近くにあるクワイ河鉄橋は、旧日本軍が太平洋戦争中の1942年にタイビルマ間にインパール作戦遂行のため全長415キロに及ぶ鉄路「泰緬(たいめん)鉄道」の建設に着手した起点に当たる。熱帯の密林や険しい山岳地帯などを切り開いていく難工事には英国、オーストラリアなど連合軍の捕虜も多数狩り出され、突貫工事による酷使に伴う栄養失調やマラリアなどの伝染病で連合軍捕虜15000人、現地労働者3万人が死亡したといわれる。その犠牲者の数は、泰緬鉄道の枕木の数のように多いため、「枕木一本、人一人」という言葉も伝えられている。

クワイ河鉄橋

クワイ河鉄橋の近くには、捕虜でありながら無念の死を遂げた連合軍兵士の共同墓地もあり、戦争の犠牲となった同胞の霊を慰めるためであろうか、欧米からの観光客の姿が目に付く。それに引き換え、バンコクなど他の観光スポットで大勢見掛ける日本人の姿はほとんどない。センチメンタル・ジャーニーと書いたのは、今回の訪問が17年ほど前に取材で訪れて以来だったためで、鉄橋のすぐ近くにある小さな記念碑がお目当てだった。

タイ駐在の米大使が参列して元米兵士の犠牲を記憶にとどめる記念碑が建立されたのは1996年9月のことで、この取材のため、当時駐在していた首都バンコクから駆けつけた。太平洋戦争終結から半世紀余がたってから追悼の石碑ができたということで、戦争の傷跡を忘れてはならないとの連合国側の思いを感じたものだ。

その日、滔々と流れるクワイ河の岸辺にあるリゾートホテルに泊まったが、宿泊客はすべて欧米人で、大きなプールを囲むように何棟も立つ4階建てのコテージ風の建物は欧米人好みの造りになっていた。旧日本軍が犯した戦争時の過ちとはいえ、後世の日本人も加害の歴史や戦争の悲劇があったことを知っておくべきだとの思いを新たにした。


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