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第2回 東京での修学生活 嵯峨隆

第2回 東京での修学生活 嵯峨隆

東京での修学生活

近衞篤麿は宮内省侍従勤務を命じられたが、その職は名義上のものであって、もっぱら学業に専念するところとなった。伝記によれば、彼は当初「大久保敢斎に漢籍を学び、一週一回本省に上り、典故を見聞し、旁ら和歌国文を学ぶ」という生活を送っていた。

大久保は東京府士族で、1864(文久4))年2月に私塾・就正社を開業していた。学科は支那学で、授業内容は四書、小学、書易、皇漢歴史に渉るものであった。場所は下二番町にあり、近衞の家から近かったはずである。

祖父の近衞忠煕は1877(明治10)年末の東京移転と同時に、京都桜木邸の家政整理を島津家の家臣・高崎正風(通称、左太郎)に委託した。正風は父の罪に連座して、一時奄美大島に流刑された経験を持つ。その後、1871年に新政府に出仕し、翌72年に左院視察団の一員となり2年近くにわたって欧米諸国を視察した。そして、1875年には宮中の侍従番長、翌年から御歌掛などを務めていた。

高崎は京都の家政整理の一方、しばしば麹町の近衞邸にも出入りしていたが、篤麿と接するに及んでその才能を知り、将来「大政輔翼の責に任じ、天下に重きをなす為には、必ず泰西の学に詣り、且つその堂に入らざるべからざる所以を」進言した。これまで主に漢学を学んできた近衞に、西洋の学問を学ぶべきことを勧めたという点で、高崎との出会いは人生の大きな転換点になったといってよいだろう。

高崎が近衞に洋学の師として薦めたのは鮫島武之助であった。慶應義塾を卒業しアメリカに留学した経験を持つ鮫島は、当時、東京外国語学校の教師を務める傍ら、麻布永坂に英学塾を開いていた。近衞は1878年3月21日、鮫島塾に入り英語を学び始めた。同年12月、塾が芝山内(増上寺境内)円山に移転すると、家臣の神原信房と共にそこに寄宿することとなった。後年、鮫島は以下のように回想している。

公の幼時、必ずしも著しき特徴あるを見ず。唯々其挙措、従容迫らず、進退自然に節に合ひ、一見凡種たらざるを知る。頗る気概に富み、少しく苦言を呈することあれば、双眼紅を潮し、遺憾残恨、自ら禁ずる能はざるの態あり。唯々然り、故に克く訓諭を牢記し、過を再びすることなく、学業亦随て上達するを見たり。

近衞は日頃は悠然として落ち着いた生活態度であるものの、負けず嫌いで意志の強い性格であったことが分かる。同時に、彼は鮫島塾で体育にも励んだ。彼は小学生時期より相撲が好きであったといわれる。再び伝記によれば、近衞は「角觝(かくてい)を以て必須の日課と為し寒暑晴雨之を廃せず。雨雪の日に在りては、室内に於て之を演ず。師弟同学交々(こもごも)技を闘はし、流汗淋漓、疲労の極に至らざれば已まず」というほど、彼は相撲に熱中していたのである。この後、相撲は生涯にわたる趣味となる。

鮫島塾での修学生活は、近衞の知識を飛躍的に向上させたものと見える。1879(明治12)年7月、彼は共立(きょうりゅう)学校(がっこう)(後の開成中・高等学校)に入った後、9月には大学予備門(後の第一高等学校)に入学した。しかし、彼は翌年春より胃を患い、学業の継続が困難な状態となってしまった。彼はやむなく大学予備門を中退し、11月から関西地方へ療養の旅に出ることになる。希望を持って迎えたはずの学生生活は、数ヵ月にして暗転したのである。

近衞は道中、伊勢で弟の鶴松(既に常磐井姓を名乗っていた)と会い、12月には一旦京都の桜木邸に滞在した後、有馬温泉に至り、ここで新年を迎えた。1881(明治14)年の元旦、近衞は次のような漢詩を作った。ここからは、当時の無念さが伝わってくる。

万戸千門賀芳辰   万戸千門、芳辰を賀し
瑞気一開百事新   瑞気一開、百事新たなり
今日何図居此地   今日何ぞ図らん此の地に居りて
閑迎十有九年春   閑(むな)しう迎う十有九年の春

近衞は1月中旬に有馬温泉を去った。そして、大阪に立ち寄った際、府知事である建野郷三と接する機会を得た。建野は、近衞が将来の日本政治において重要な役割を担うためには、早い時期に海外に留学し、西洋の文物・制度に関する知識を身に付けるべきだと考えたといわれる。後年、近衞は留学を希望する際に密かに彼に相談したという。そうだとすれば、建野は近衞の海外留学の素因を作った人物の1人といえるであろう。近衞は建野の識見に心服するところが多く、この後もしばしば彼のもとを訪ねたということである。

2月に京都に戻った近衞は、当地にいるかつての家臣70余名を集め旧交を温めた。彼はその場で、旧臣相互の結合と親睦を図るべく陽明親睦会を発起している。その後は、京都の古跡・名刹などを巡り歩いたり、近衞家の歴史を調べるなどして日を過ごした。無聊の時は、旧友・旧臣らを招いては詩歌・吟詠を楽しんだという。

その中には、かつての師である三国幽眠もいた。後年、ドイツに留学した際に、近衞は「三国幽眠ノ詩」という一文を書き、「先年余の病を得て京師に遊ぶや翁(三国を指す-筆者)屡(しばし)ば来て飲み且つ吟ず。酔へば必ず一弦の琴を弾ず。余月琴を以て之に和す」と記し、この時のことを懐かしんでいる。

1881年8月8日、健康を取り戻した近衞は東京へ戻った。その後、彼は大学予備門に復学することなく、自宅で独学によって知識を広めていった。その先には、ヨーロッパ留学が見据えられていたのである。


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