1. HOME
  2. 記事・コラム一覧
  3. コラム
  4. 第1回 京都時代の生活 嵯峨隆

記事・コラム一覧

第1回 京都時代の生活 嵯峨隆

第1回 京都時代の生活 嵯峨隆

今日、近衞篤麿の名前を知っている人はどれほどいるだろうか。1904(明治37)年に、40歳という若さで他界したものの、昭和の戦前・戦中期までは彼に言及した書物が数冊出版されていた。そのことは、長男である文麿が首相の座に就いたこととも関わっているのかもしれない。だが、それ以上に彼の名は明治期の政治家、教育家そして興亜の思想家として人々に知られていたのである。
しかし、第2次世界大戦後においては、近衞の業績はほとんど語られることはなくなった。この連載では、「忘れられた人物」としての近衞の生涯を振り返り、その人間としての多面性示すと共に、明治という時代との関わりについて見ていこうと思う。

京都時代の生活

近衞篤麿(号は霞山)は1863(文久3)年8月10日(旧暦6月26日)、忠房と光子の長男として京都に生まれた。家系をたどれば、篤麿は藤原鎌足を祖とする五摂家筆頭たる近衞家45代目の当主となる人物である。当時、父は内大臣の地位にあり、母は薩摩藩藩主・島津斉彬の養女であった。

近衞には2人の弟と1人の妹がいるが、長弟のは後に津軽家の養子となり早稲田大学と学習院大学の教授を務め、次弟の鶴松は真宗高田派管長であるの養子となって常磐井と改名し、堯煕の死後は管長の地位を継いでいる。妹の泰子は後に貴族院議長となる徳川に嫁いだ。

近衞家の屋敷は御所北側の今出川御門近くにあったが、近衞家について記した書物によれば、篤麿は生後まもなく近衞家の家臣である加治正教の家に預けられ、保母の内藤さと子によって育てられたとされる。そして、数年にして桜木(現在の上京区森之木町)にある近衞別邸に住む祖父忠の下に引き取られている。なぜ両親ではなく、祖父に引き取られたのかといえば、1870(明治3)年6月に父の忠房が政府への出仕を命じられて、東京に移っていたからである。彼が両親と共に過ごした時間は、おそらく短かったであろう。

1872年8月に学制が公布されると、近衞は銅駝小学校に入学したと評伝には記されている。ただ正確を期せば、この校名は75年以降のものであって、それ以前は上京第三十一番組小学校と呼ばれていた。近衞は同校において、「好んで同輩と交はり…毫も尊貴を挟みて衆人に驕るの色はな」かったということである。

しかし、普通教育が近衞に何らかの特別な影響を与えたとは考え難い。近衞はこれ以前から、家庭教師を招いて漢学を学び始めていた。こちらの方が、彼の知識の基礎を作ったといえるだろう。彼が教えを受けた人物として名前が分かっているのは、林正躬、三国・親子、小泉清渓、巌垣六蔵(岩垣とも表記される)らである。

林正躬には『清国史略』などの著作があるが、当時は上京第廿四区丸太町で経書などを教える塾を開いており、後には京都府教育会の幹事に就任するなど、京都教育界の重鎮となる人物である。三国幽眠は鷹司家の侍講を務めた人物で、明治維新後は宗教関係を司る教部省の教導職であるとなった。幽眠の息子である一は、後に京都尋常中学校の国語教師を務めることになるが、近衞とはどの程度まで親しく交わったかは不明である。小泉清渓については、小泉武則あるいはその縁者ではないかと推測する研究もある。

以上の家庭教師のうち、巌垣六蔵が近衞に与えた影響は、より深いものがあったのではないか。六蔵は本姓を岡田といい、号を月洲という。彼は一時、京都にあった学習院の講師を務めた後、師とその後継者の没後に巌垣姓を名乗り遵古堂を継いでいた。巌垣は漢学者でありながら、その学問傾向は実学重視にあった。また、ある時門人が、外国には和戦いずれをもって対応すべきかを尋ねた時、彼は「我邦、昇平なること二百年、国窮まりて兵弱し。今日の急務は、富強の術を講ずるより急ぐは莫し。何ぞ和戦の得失を論ずる暇あらん」と答えている。近衞もこうした現実重視の影響を受けたことは想像に難くない。

さて、1873(明治6)年7月5日、東京に移っていた父忠房が36歳という若さで没した。忠房は出仕後、一時は神祇官大副の地位にあったが、最終的には非役であったという。そのため、近衞は同年9月15日、10歳にして家督を相続することとなった。その後、77年1月10日に元服を加え、同月20日には従五位下に叙せられた。当時、旧公家の多くが東京に移る中、依然として京都に留まり続ける近衞家に対し、朝廷内には東上を促す声が上がっていた。そして、三条実美の周旋などもあって、5月3日に勅命が下り、近衞を宮内省の侍従職に勤務させる運びとなったのである。

近衞は1877(明治10)年7月25日、東京に移り麹町区(当時は第三大区)下二番町の屋敷に入った。この時、祖父の忠恢は篤麿と行動を共にしなかった。おそらく、生まれ育った京都を離れ難かったのだろう。しかし同年冬、忠恢は意を決して東上し、篤麿と同居することとなった。母と3人の弟妹は、すでに東京にいたはずである。これから、彼は新たな生活へと入っていくことになるのである。


《近衛篤麿評伝》次回
《近衛篤麿評伝》の記事一覧へ


タグ

全部見る