第438回 アユタヤ時代の煉瓦が出土するタイの中華街 直井謙二

第438回 アユタヤ時代の煉瓦が出土するタイの中華街
経済成長を続けるタイ、首都バンコクの変貌は目を見張るものがある。特に日本人の多く住むスクムビット界隈はシンガポールと変わらなくなった。変化の波は古い建物が軒を連ねる中華街、ヤワラートにもおよび中華街独特の古い商店が取り壊される光景を目にする。(写真)

中華街の形成はチャクリ王朝が樹立された18世紀末から始まった。古い商店の取り壊しで姿を現したレンガは250年前にコウバウン朝ビルマの攻撃で崩壊したアユタヤ王朝時代のものだ。貴重なアユタヤ遺跡のレンガが中華街の商店の壁になっていたわけだ。
歴史を振り返るとアユタヤがほろんだ翌年にはタークシン王が即位しチャオプラヤ川に面したトンブリに王朝を築いた。王はバンコク界隈からビルマ軍を追い出すと中部タイなどを平定し今はカンボジア領となっているシェームリアップにまで勢力を伸ばし、アユタヤ王朝の支配圏を回復した。
タークシン王は中国の潮州の華僑の血をひいていて明から暹羅国長の鄭昭という中国名をもらい国際社会の承認も得た。しかし制圧した地方の領主に自らの側近を配したことから既得権を持つ旧来の領主の反感をかい、潮州華僑の支援を受けるチャクリ王朝のラーマ1世によって処刑された。
ラーマ1世は都をトンブリの対岸に移し王宮など首都建設に乗り出した。そして南部のイスラム王国パッターニを攻め、多くのイスラム教徒をバンコクに連れてきて首都建設にあたらせた。現在もバンコク市内は他の地域と比べイスラム教徒やモスクが多い。列強の植民地支配が進み人手不足になったことや鎖国政策を布いていた清朝が衰退し大量の中国人が東南アジアに流れた。
タイはタークシン王が潮州人の血をひいていたことなどから潮州からの華僑が多く、中華街では潮州語がいまだに飛び交っている。華僑の墓である「山荘」を訪ねると清朝末期に建立されたものが多い。裸一貫でバンコクにたどり着いた華僑は新たな家を建てる資金に困窮した。そこで目を付けたのがビルマに破壊されたアユタヤ王朝の廃墟付近に転がるレンガだ。レンガで土台や壁を作り、店を構築して中華街が拡張された。事業に成功した華僑は混雑する中華街を出てビルを建てビジネスを展開した。このため中華街は建設された当時の面影が残っていたが、店の老朽化で建て替えが始まった。店の建て替えで世界遺産アユタヤのレンガが久しぶりに姿を現した。
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