第288回 白鷺城とアンコールワットの修復 直井謙二

第288回 白鷺城とアンコールワットの修復
修復工事をほぼ終え、来年春の一般公開を前にした姫路の白鷺城が修復前より白くなったとの批判が相次いでいる。カビなどを防ぐために塗った漆喰が影響していると見られ、1年もすれば落ち着いた灰色になるというが、風化した遺跡の味わいが消えたことに落胆する人は多いようだ。
1980年代半ば、インド隊によるアンコールワット遺跡修復事業も同じような批判を受けた。ベトナム軍のカンボジア侵攻でポルポト派を追い出して樹立されたヘンサムリン政権に対し国際社会は制裁を課していて、各国政府やユネスコはアンコールワット遺跡の修復を支援していなかった。
そんな中、ヒンズー教や仏教の発祥の地でもあるインドはアンコールワットの修復に早くから乗り出していた。86年に初めてアンコールワットの取材したとき、寺院の周りには高い足場が組まれ、インド人指導者のもと大勢のカンボジア人労働者が遺跡の洗浄を行っていた。
バケツの水に薬品を溶かし、雑巾で遺跡の壁を洗うのだが、後に猛毒のダイオキシンが使われていたことが分かり社会問題になった。遺跡は長年の風雨にさらされたことによる汚れやカビなどが洗い流され、真っ白になった。

90年代の初め日本画家の平山郁夫画伯に同行してアンコールワット訪れた時のことである。20年ぶりに訪れたアンコールワットを前に画伯の第一声は「ずいぶん白くなりましたね」だった。
インド隊はさらに破壊された一部の遺跡をヒンズーや仏教に倣い改築してしまった。アンコールワット遺跡はインドのヒンズー教や仏教文化に土着の文化が混合した独特の建築物だったのが、無視されてしまったのだ。
ポルポト政権が知識人を狙って殺害したためカンボジア人のアンコールワット遺跡の専門家が激減したこともかなり影響しているといえる。もともと数十人いた専門家が内戦終結時にはたった2人なってしまっていた。
内戦終結と同時にインドなどと共にアンコールワット遺跡の修復に乗り出した上智大学の石澤前学長は遺跡はカンボジア人の手で修復されるべきだと主張していた。
90年代半ばになると石澤前学長らは修復事業の傍ら、若いカンボジア人の育成に取り掛かった。アンコールワットの境内にそびえる大木の木陰で青空学級が始まった。今では立派な研修所も完成し、優秀なカンボジア人研究者が育っている。継続的な修復作業の観点からも地元の研究者を育てる必要がある。遺跡の修復は現在の姿を維持するために行うべきか、資料に基づき完成当時の姿を再現すべきか洋の東西を越えて難しい問題のようだ。
写真1:人影がない80年代のアンコールワットの参道
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