第252回 寂しい成田空港トランジット 直井謙二

第252回 寂しい成田空港トランジット
バンコクやマニラ駐在の特派員は毎月2回ほどのペースで赴任した国から他国へ取材に出かける。11年間の任期中220回ほど任地から海外出張したことになる。事故や騒乱、それに応援取材などで東は中国や韓国、西はパキスタンやアフガニスタンを訪れた。
1986年インドネシアのバリ島で開かれたASEAN外相会議は旧ソビエトのチェルノブイリ原発の爆発事故と重なり、レーガン元米大統領と同行していたスピーク元副報道官の記者会見なども加わり忙しいスケジュールに追われた。1週間ほどの取材が終わり赴任地のバンコクに戻ったときはこれで家に帰ることができると正直ホッとした。ところが空港の出口に妻と子供が立っている。スリランカで爆弾テロ事件があり、東京のデスクから航空券を買い、金の準備をして空港の出口で帰宅する筆者を待つ様にと指示されたのだという。空港の出口でトランクを開け、汚れた下着と洗濯済みの下着を交換し、航空券と金を受け取って出発口に向かった。ようやく家にたどり着けると思った安堵感を吹き飛ばし、再び取材の緊張感を取り戻すのに苦労した。以来、海外取材から戻ると空港出口を見回し、家族がいないことを確認する癖が付いてしまった。

2001年2月、ハワイ沖で愛媛県の宇和島水産高校の船が米軍の潜水艦に衝突され、多数の死者や死傷者が出るという痛ましい事件が起きた。悲惨で気の毒な事件だと思いながらもハワイはアメリカのカバー範囲であることから新聞も斜め読みしていた。ところが潜水艦のワドル艦長らの裁判が始まるころ東京のデスクから前線デスクをするよう要請が入った。バンコクからハワイ間の航空ルートを調べると一旦東京に行き、トランジットでハワイに向かうしかないことが分かった。海に囲まれた南国タイからはハワイへ向かうタイ人旅行客が少ないせいだ。東京でトランジットしてハワイにたどり着くくらいなら東京からハワイに入ったほうが合理的だと説得したが、東京は人繰りがつかないとのことで、結局ハワイ取材を引き受けることになった。急いで関連記事の新聞切抜きを済ませ、バンコクから6時間かけて久しぶりの懐かしい成田空港に降り立ったが、すぐにハワイ行きの航空機に搭乗しなければならない。成田のトランジットルームでハワイ行きの航空便を待つ間に一抹の寂しさがよぎり、日本人だったと再認識させられた。(写真)
2週間のハワイ取材を終え、バンコクに戻ろうとしたとき、東京のデスクが1週間ほど日本での休暇を与えてくれた。
写真1:乗客で混雑する成田空港
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