第108回 ホイアン、華僑文化に埋もれた日本人町 直井謙二

第108回 ホイアン、華僑文化に埋もれた日本人町
ベトナム中部ホイアンの日本人町には、江戸幕府の鎖国政策によって帰国するチャンスを失ってホイアンに没した日本人の墓があり、古伊万里の破片なども出土する。
大勢の武将や商人が御朱印船などに乗って遥か東南アジアを目指したという冒険とロマンを胸に、多くの日本人観光客がホイアンを訪れる。
天下取りを夢見た戦国武将も豊臣、徳川の時代に入り、全国統一されていく中で夢を東南アジアに求めたとみられる。戦国時代に培った実戦の戦闘能力は、東南アジアの権力者や植民地支配を狙う欧米人には便利な兵力だった。また、沈香や象牙、それに鉄砲などの商品は、商人のみならず大名にも魅力的だったに違いない。
名古屋の豪商が残した「茶屋新六交趾国貿易絵図」には、長崎からベトナムに至る海の風景や日本人町の様子が描かれている。
現在のホイアンには日本橋と呼ばれる橋があるが、どう見てもお江戸日本橋とは似ても似つかない。(写真) 中国風である。

日本人町だったと言われる古い町並みも日本風ではなく、中国風である。筆者は1990年代初めにホイアンを訪れ、必死に日本の痕跡を探したが、博物館に保存されている物以外はほとんどが中国風であった。
しかし、当時のヨーロッパの文献によれば、ベトナムの阮(グエン)王朝は日本人と中国人にその人口に応じて家屋を建てる特権を与えていて、それぞれ別々に生活していたようである。日本人町が滅びるまで、日本人と中国人は互角に活動していたことになる。
その後、徳川幕府の鎖国政策で日本人の往来がなくなってしまった。徐々に日本人町の人口は減り、一方の中国は1645年に明が満州人の清に敗れ、漢人である大勢の明臣が阮王朝を頼ってベトナムに流れた。日本人の数が減り、中国人の数が増え、日本橋もやがて中国風に修復され、正式には来遠橋と呼ばれるようになった。
「日本人は自分を含め2名になってしまった」と望郷の念をつづる手紙も残されている。こうした両国の歴史に裏打ちされた国民性は、現代も残っているような気がする。日本人ビジネスマンは数年すると帰国してしまうので、なかなか信頼関係が築けないとの声を華僑華人ビジネスマンから聞いたことがある。
徳川幕府の250年にわたる鎖国政策が日本人を内向きにしたことは間違いないが、現代でもその影響が残っているのだろうか。
写真1:ホイアンにある日本橋
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