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第541回 高度成長期、ある工業都市の「二十四の瞳」(下) 伊藤努

第541回 高度成長期、ある工業都市の「二十四の瞳」(下) 伊藤努

第541回 高度成長期、ある工業都市の「二十四の瞳」(下)

筆者の私家版「二十四の瞳」で紹介する11人目の男子の級友、O君は仲間内では「O画伯」と呼ばれていた絵が上手な小学生で、学業成績はまあまあだったが、図画図工の科目では通知表で最高評価の「5」を取っていたに違いない。H先生のクラスでは年に何回か、学校内や校外に出ての写生会があったが、芸術の才能が全くない筆者などにとっては、どのように描いていいのか全く分からない。だが、クラスでは普段目立たないタイプのO君は、左利きの絵筆を持ち、あれよあれよという間に風景を見事に画用紙に写していくのである。色彩のタッチも子供離れしている。ただ、先生などから褒められても、本人は自慢するふうでもなく、あくまでも謙虚だった。このような才能を持つ級友が身近にいたのだから、遠慮せずに絵の描き方の極意の一端でも聞いておけばよかったといまだに後悔の念がある。

12人目は担任のH先生から目をかけていただいた筆者の「I」である。筆者は小学4年の2学期にこの工業都市の公立小に転校してきたが、転校した直後に行われた社会科の地理のテストで、日本の47都道府県の地図に県名と県庁所在地などを書く問題があり、その1年ほど前から自宅で地図帳に親しみながら遊ぶようなことをしていたので、偶然ながら、全問を正解にできた。当時、5クラスあった4年生の学年でただ一人だったと、4年次担任のK先生から教えられた。転校生だったため、このことが職員室でもすぐさま知れ渡ったらしく、5年に進級してからの新クラスでH先生が担任になっても、「I君は社会科だけはできる」と思い込んでおられたらしい。そうなると、こちらも先生のせっかくの期待を裏切らないようにと一生懸命勉強するクセがつき、社会科だけは「5」の成績を付けていただくことができた。当時、市内の公立小では社会科や理科といった科目でも、夏休みの自由研究課題の優秀作品をコンクールに出品して、児童・生徒を励ますという取り組みが行われていたが、H先生からは5年と6年のときにいずれも社会科の自由研究をコンクールに出すよう強く働きかけられた。何色かのマジックペンを使って何枚かの大きな模造紙に書かれた自由研究の課題は、普段の社会科の授業でも使用され、H先生にとっては、筆者が社会科授業のアシスタントになっていたわけだ。今となっては、そのような機会を特別に与えていただいたことに感謝の気持ちがあるだけである。

さて、最後に私家版「二十四の瞳」の恩師に当たる担任のH先生には実名でご登場願い、その横顔を簡単に紹介したい。

大正末年生まれの羽藤志づ江先生は、筆者らの担任だった昭和40年前後は40代前半の女性教師だったが、ご主人とは若くして死別され、当時、大学生か高校生だった長男、長女の二人の子供を育てておられた。書道の師範免状を持つ先生は、勤務先の小学校の校門前にある知り合いの文房具店の空き部屋を借り、児童・生徒向けの書道塾を開いていたが、教員の副業がまだ認められていたのだろう。書道塾にはご自分の受け持ちのクラスの児童・生徒も何人か通っていたが、居住する市や県で行われる書初め大会や書道展には教え子の作品も出展され、入賞した作品も少なくないようだった。多感な思春期を迎えた子供の養育や小学校教員としての仕事、自力での書道塾運営と多忙な日々を送られていた羽藤先生だったが、受け持つクラスの児童・生徒にも一人ひとりと丁寧に向き合い、それぞれの子供が持つ個性を伸ばそうという姿勢は一貫していたと改めて思う。羽藤先生は学校からの帰宅時には筆者の自宅に立ち寄って、同じ大正世代の父親と話すこともあり、父が毛筆を得意としていたことから、書道師範の先生とはウマが合ったのかもしれない。

小学校を卒業した後、年に何回か工業都市の臨海地区にある羽藤先生のご自宅にバスを乗り継いで、元級友の男女数人と何度か遊びに伺ったが、いつも同じカード遊びに興じた後は、先生手づくりの料理を頂戴した。こうした楽しい行き来も高校、大学への進学、就職などと年月がたつにつれ、疎遠になったのはやはり一抹のさびしさを感じる。往事茫茫ながら、多感な少年期にさまざまな教えを受けた小学校時代の恩師に対する感謝の気持ちを持ち続けたい。

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