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第539回 高度成長期、ある工業都市の「二十四の瞳」(中) 伊藤努

第539回 高度成長期、ある工業都市の「二十四の瞳」(中) 伊藤努

第539回 高度成長期、ある工業都市の「二十四の瞳」(中)

筆者が子供から少年期に差し掛かった昭和30年代の高度経済成長時代のある工業都市の小学校の5~6年生のときの同じクラスの個性ある級友の横顔を、久しぶりに朗読を聞いた壺井栄の小説「二十四の瞳」の登場人物12人の生い立ちなどとだぶらせて思い出し、私家版「二十四の瞳」として紹介させていただいているが、あと2回にわたって残りの7人の級友と担任だったベテラン女性教師、H先生の思い出を綴ってみたい。筆者が小学5年生のときは、戦後日本の経済復興を国際社会に示す場ともなった東京五輪が開催された昭和39年(1964年)で、学校近くの国道が走路となった聖火ランナーの応援に駆り出されたことや、秋の運動会では校庭に万国旗が飾られ、小学生ながら世界の国々というものが初めて身近に感じたことが強く印象に残っている。

さて、6人目に登場のI君は、当時住んでいた町の少年野球チームで投手を務め、筆者がそのボールを受ける捕手としてバッテリーを組んでいた間柄だ。学校の外でそのような活動をして、お互いに少年野球で切磋琢磨していたこともあり、一番親しかった友人だ。野球のセンスが抜群だったI君は地元公立中学の野球部でも3塁手として主軸打者の一角を占めるなど、野球仲間としての付き合いが続いた。少年野球チームは市の大会でも上位に進出したが、I君の制球の良さとストライクゾーンすれすれに曲がるカーブの切れ味は小学生時代にマスク越しで捕球していただけに、いまだに瞼に焼き付いている。

7人目のT君は地元商店街にある寿司屋の一人息子で、ひと言で言えば、最も親しい遊び仲間だ。通知表の成績も常に5段階評価で「オール4」と勉強もできたが、通知表で「5」もあれば、「3」もある筆者とは少し異なる成績だった。担任のH先生の強い勧めもあって私立大学の付属中に入学し、付属高校を経て大学では薬学部に入り、後に薬剤師として薬局を経営する立場になったのだから、頭は良かったのだろう。T君と仲よくなったきっかけは、一人っ子によくある我が儘を直すため、ご両親が前回の本欄で紹介の「バケツ」ことF君と筆者の2人に目を付け、店舗を兼ねた自宅の空き部屋を遊び場所に提供してくれたことがある。F君と筆者が地元の公立中学に進学した後、寿司屋の息子のT君は別の私立中学に入ったが、出前の注文が増える家業の寿司屋の書き入れ時の年末年始はこの3人組で自転車による出前のアルバイトをやり、親密な付き合いは中学、高校時代も続いた。F君と筆者のアルバイト代は野球部の活動費としてありがたかった。

8人目のT君は名字の一字を取って、「お富さん」と呼ばれていた巨漢の心優しい級友だ。昭和の名歌手、春日八郎の歌謡曲「お富さん」は筆者らが生まれた直後に大ヒットした昭和歌謡の代表曲の一つだが、大正末年生まれの担任のH先生が歌の主人公と似たようなT君のひょうきんで明るい性格から名付けたと記憶する。同じ町内にある警察官の官舎に住んでいたので、父親は警察官だったのだろうが、本人は家族のことについては一切口にすることはなかった。学業成績も優秀だったと思われ、県内有数の私立中学に進学し、小学校卒業後は交友は途絶えた。小学生のときにすでにお相撲さんのようだったまるまる太った体はその後、どのようになったのだろうか。

9人目は女子の級友のNさんで、二人のお兄さんが大学生という家庭環境にあったため、3人きょうだいの末娘ということでご両親に大切に育てられたことがクラス内での言動からうかがえた。担任のH先生も、そのような素直でありながら利発なNさんを目にかけており、秋の学芸会ではクラスの出し物で、当時のNHKが朝の報道番組でスタートさせたキャスター制のニュース番組を模したコントを演じ、Nさんが女性キャスター役に抜擢された。NHKの初代キャスターは確か、「野村泰治アナ」。Nさんの名前も「能村」なので、この出し物を発案したH先生が気を利かして名前が似たNさんを起用したのではないか。地元中学、市内の公立高校でも筆者とは一緒だったが、計6年間のクラスでは同じ組になることはなく、多忙に紛れてあいさつを交わす程度の間柄になってしまった。

10人目も女子の級友のHさんに登場願うが、Hさんも担任のH先生の書道塾に通っており、字が上手だった。「少しばかり勝気な美少女」という表現がぴったりだったが、そのHさんから級友の仲間数人とともに自宅で開かれた誕生日会に招かれたのには驚いた。クラスの中では特に意識し合う関係でもなかったので、なぜ自分がこのような場に招かれたのか分からなかったこともある。ただ、男兄弟の中で育った筆者のような者にとって、お姉さんがいる二人姉妹の一戸建て庭付きの自宅の部屋の様子などは、殺風景なわが家とは全く雰囲気が違って、妙な印象が残ったことは確かだ。Hさんの母親からは「娘の良い友だちになってくださいね」というようなことを言われた記憶があるが、クラス内では相変わらずの当たり障りのない関係が続いた。人生の縁とは不思議なものだとつくづく思わされる。(この項、続く)

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