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第537回 高度成長期、ある工業都市の「二十四の瞳」(上) 伊藤努

第537回 高度成長期、ある工業都市の「二十四の瞳」(上) 伊藤努

第537回 高度成長期、ある工業都市の「二十四の瞳」(上)

最近の若者に読み継がれている小説かどうかは分からないが、筆者の若い時分に読んで感動した女性作家・壺井栄の代表作『二十四の瞳』の朗読をNHKのラジオ番組で視聴する機会があった。この小説は、昭和時代の初めから太平洋戦争で敗戦した直後の戦後の時期までの期間、瀬戸内海に浮かぶ小豆島とされる島の岬にある小学校の分教場で新任の女性教師が教え子の12人の子供たち(男子5人、女子7人)との交流や彼らの成長ぶり、戦争に入っていく時代の庶民の厳しい生活の一端などを交えながら、戦後に再会した折には男子の教え子3人が戦死し、一人は戦争で盲目の身となった男性を含む生き残った教え子たちの計らいで恩師の大石久子先生が再び分教場で教鞭を執ることになった歓迎会の様子を描写して物語が終わるという筋立てとなっている。

戦争でさまざまな労苦を強いられた庶民の側から見た反戦の意味合いが強い小説だが、涙を誘わずにはおかない作品の内容が話題を呼んで、昭和29年(1954年)には木下恵介監督の同名映画が当時の有名女優・高峰秀子の主演で公開され、『二十四の瞳』は小説、映画とも国民的な作品となった。ちなみに、盲目となった男性の教え子、磯吉(あだ名はソンキ)は俳優としてブレークする前の田村高広が演じている。

小説の朗読は1回15分で、回数は計35回に上ったが、「二十四の瞳」、つまり男女合わせて12人の子供たちの性格や個性、生活環境などが作品中で詳しく紹介されており、この朗読を聞くうちに、筆者の半世紀以上も前の小学校高学年(5年と6年)のときのベテラン女性教師のH先生が担任のクラスの個性ある級友たちの面影が鮮明に浮かんできた。そこで今回は、戦前・戦中の時期から20年ほどたった高度経済成長の前半期のある工業都市の小学校の学校生活を振り返りながら、壺井栄の小説風に筆者と親しかった12人の級友の個性、特徴を登場人物として、3回にわたり紹介してみたい。

これから紹介する12人のうちの何人かは、地元の公立中学には進学せず、県内あるいは隣接する都内の私立中学に進んだが、今になって振り返ると、私立中に進学した級友は学業成績も中程度から上位の者がほとんどで、親が自営業を営んでいたり、一人っ子だったりと、裕福な家庭の子女が多かった。筆者は地元の公立中学進学組だったが、この時点で有名私立中に行こうなどという気は全くなく、男女共学の地元中学は生徒が多士済々で楽しい学校生活を送ることができた。

小学5~6年のクラスで成績がトップだったK君(1)は秀才肌で、性格も温厚、小学生ながらすでに大人(たいじん)の風格があり、都内の難関中・高校などを経て、小学校教諭となった。都内の公立小で校長を務めた後、理科の実験教育に秀でていたようで、その特技を生かして現在は私立大学の特任教授を務めている。数年前、K君が校長を務める都内公立小の児童一行が筆者の長女が勤務する新聞社を社会見学で訪れたことを紙面で知り、電話で久しぶりに近況を話し合った。中学から遠隔の私立校に通っていたこともあり、小学生時代の級友との交流はないとのことだった。

頭部が金物のバケツに似ていたため、「バケツ」がニックネームだったF君(2)は地元のそろばん塾に通っていたため、小学生時代は計算や算数が得意で、野球もうまく、公立の中学、高校では筆者と同じ野球部で頑張った親友だ。社会人になってからは、疎遠になってしまったが、最初に結婚した奥さんとは離婚したとの便りも耳にし、連絡が長く取れずにいるのは残念だ。家庭事情が複雑だったことは、後年の高校時代に初めて知ったが、高校の野球部をいったん退部したのも、母親がF君の学業成績が振るわなかったことを心配したためだと本人から聞いた。中学時代に野球部のエースとして活躍し、勉強もできたF君だったが、高校ともなると、練習の厳しさは違ったということだろう。

「金太郎さん」があだ名だったO君(3)は人格円満で、気は優しくて力持ちというタイプ。体も大きかったことから、小学生時代にはやっていた級友同士の休み時間の相撲では、クラスの中で横綱格だった。地元の公立中では同じ野球部に所属していたが、高校は別で、大学受験では頑張り屋の性格が奏功したのか、私立難関大に入学し、社会人となってからはビジネスマン、金融マンとして世界を飛び歩いている。昨年末の一時帰国時に四十数年ぶりの再会を果たしたが、小学生、中学生時代の話になると、こちらが忘れていたことを話し出し、歳月の隔たりを一挙に埋めることができた。

T君(4)は短距離走に秀でていて、運動会では小学生時代、中学生時代でもちょっとした英雄となっていた。身長は高くないが、級友と一緒に走ると、50メートル走でも100メートル走でもゴール時点での差を見れば、段違いの速さであることが分かるが、脚の運びの速さが走力に結びついていたのだろう。中学に入学後は陸上部で短距離走の道を選んでいれば、県大会、関東大会にいく実力は十分にあったと思われるが、本人は当時、人気が出ていたサッカー部に入り、ウイングの選手として走力を強みとしていた。

次は女子の級友に登場願おう。Kさん(5)は利発で快活な女の子で、成績も優秀だったが、記憶に残るのは、担任だったH先生が校務外に小学校の門前で開いていた書道塾の教え子でもあり、ペン字と習字がともに上手だったということだ。Kさんは小学校の近くにあった大手企業の社宅用団地に住んでいたが、中学への進学時に一家がお隣の横浜市中央部の区に引っ越したため、その後の音信は年に一度の年賀状のやりとり程度になってしまった。筆者が地元公立高校の2年生のとき、Kさんが進学した横浜地区では強豪の公立高校の野球部と夏の県大会で対戦したことがあったが、対戦チームにいた小学生時代の同級生である筆者への連絡はなかった。高校野球には関心がなかったのだと思い、自らを慰めた思い出がある。(この項、続く)

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