〔44〕航空機全盛時代まで生き残ってきた日中国際フェリー 小牟田哲彦(作家)
〔44〕航空機全盛時代まで生き残ってきた日中国際フェリー
昨年(令和7〔2025〕年)12月初旬、大阪・神戸と上海との間を結ぶ国際定期貨客フェリー「鑒真号」が、旅客営業を当面の間中断するというニュースが流れた。11月以降、中国から日本への観光旅行客が急減し、航空便も減便が相次ぐ中で、影響が旅客フェリーにも及んできたか、というのが私の個人的な印象である。と同時に、「いまどき、日本と中国の間を3日もかけて船で往来する人がいるのか?」と感じた人もいたのではないだろうか。
日中間を往来する旅客航路の歴史は古い。所定の手続きさえ踏めば一般人でも乗れる定期旅客船が日中間に初めて就航したのは江戸幕府末期の安政6(1859)年。イギリスの海運会社が、長崎~上海間に蒸気船を投入して、2週間に1回のペースで1泊2日の定期航路を開設したのである。以来、日清戦争など一時的な中断はあったものの、日中間の旅客往来の増加に合わせて航行ルートや運航便数は拡大を続けた。日本の鉄道や中華民国の鉄道と連絡運輸が行われ、戦前の旅客は1枚の切符で日中間の鉄道と船を乗り継ぐことができた(画像①参照)。

画像➀:昭和6(1931)年に発行された東京から中国・青島までの連絡乗車券。鉄道で西下し、北九州の門司で日本郵船の船に乗り換えて青島まで行くルートが券面に示されている
戦後は、日中国交正常化前は香港への貨客船が多数運航されていた。「鑒真号」を運航する合弁会社・中日国際輪渡有限公司が上海発着の定期便をスタートさせたのは1985(昭和60)年と、日中間の定期旅客航路の歴史全体の中では比較的新しい。その後、複数の会社が日中間に貨客フェリーを就航させている。その大半は大阪または神戸の関西エリア、あるいは長崎の発着だが、1995(平成7)年までは横浜発着便も存在した。伝統あるミナト・ヨコハマに発着した国際旅客フェリーは、この日中国際フェリーが最後だった。
私は過去2回、日中フェリーに乗ったことがある。現在の「鑒真号」の前に就航していた「新鑒真」と、別会社が神戸~天津間で運行していた「燕京」(画像②参照)である。いずれも、日中間を2泊3日で往来していた。乗船運賃はいずれも2日間の朝食付きで23,000円、「新鑒真」は学割だと18,400円で乗れた。21世紀になっても、学生なら2万円以下で上海に行けたのだ。

画像➁:神戸港に停泊する燕京号(2002年撮影)
「新鑒真」に乗った1996年も「燕京」に乗った2002年も日本の大学の長期休暇期間に当たっていたことから、船内の旅客のうち、日本人は大学生が多かった。一方、中国人乗客は業務や留学での日本渡航者ばかり。中国からの団体訪日ツアーが解禁されたのは2000(平成12)年で、その前後にあたる両船の乗船時期は、業務や留学、家族訪問などが目的で訪日する中国人がほとんどだった。船の旅は飛行機に比べて荷物が多く運べるため、日本から乗った「新鑒真」では、日本製家電製品が入った段ボール箱を10箱以上持ち込んでいる中国人乗客を多数見かけた。
あれから20年以上が経ち、日本人より裕福な中国人旅行者が航空機で日本観光に来ることが珍しくない時代になっている。運航を一時中断した「鑒真号」が再び旅客を乗せるようになったときにどんな客層が再開を歓迎するのか、かつての利用客として興味がある。





