第52回 ミャンマーに住みついた漢民族の末裔 直井謙二
第52回 ミャンマーに住みついた漢民族の末裔
昨年の2009年、中国で2つの対照的な少数民族問題が起きた。7月、中国新彊ウイグル地区で起きた中国建国以来最大の暴動は300人の死者を出し、G8サミットに出席するためイタリア入りしていた胡錦濤国家主席が急きょ帰国した。
その翌月、中国国境に近いシャン州でミャンマーの少数民族コーカン族がミャンマー軍と銃撃戦になり、1万人が国境を越え、中国領内に流れ込んだ。流れ込んだ難民の中には武装勢力も混じっていたが、国境を越えるやいなや、武装解除し、武器を中国側に引き渡した。
中国側もウイグル族に対する対応とは対照的に難民を保護し、ミャンマー政府に対して懸念を示し、事態の収拾を求めた。このため、事件はすぐに沈静化し、ほとんどニュースにならなかった。
コーカン族の歴史は明代にさかのぼる。明王朝最後の皇帝、永暦帝は中国東北部から起きた満州族の清の攻撃に耐えられず、ミャンマーに逃げ込んだ。ミャンマー、当時のビルマ王は清の勢いを恐れ、永暦帝を清に引き渡した。永暦帝は殺害され、1659年、明は滅んだ。
この時、永暦帝に随行した約600人の漢民族はビルマ領内に留まることを許された。これがコーカン族の始まりだといわれている。
その後、中国が激動するたびに漢民族がビルマに逃げ込んできた。1960年代の文化大革命の時も、南部の辺境の地に追われた人々が、国境を越えてビルマのシャン州に逃げ込んできた。
10年ほど前、コーカン族が多く住むシャン州のラシオを訪れた。ラシオ中心街の一角はまるで中国のフートンのように漢字で埋まっていた。中華料理レストランのメニューも漢字で価格は人民元で表示されていた。中国の時代劇に出てくるような服装の人や中国共産党の人民帽をかぶった人もいて、中国の歴史を映し出していた。(写真)

ところで日中戦争で追い詰められた蒋介石政権は重慶に逃れ、戦闘を続けたが、欧米諸国は蒋介石政権を支えるため、戦略物資を輸送する軍事ルートを当時のビルマに設置した。
蒋介石政権を支援することから、「援蒋ルート」と呼ばれたが、ラシオはその拠点の1つだった。満州族の清が滅び、ようやく成立した漢民族の蒋介石政権だが、日本軍の攻撃でピンチに陥っている。漢民族の末裔(まつえい)のコーカン族や、清に抑圧されてきたイスラム教の漢民族は物資輸送に協力を惜しまなかったといわれている。
コーカン族は中国の文字や習慣を学ぶ学校を設立し、およそ2000人のコーカン族の学生が通っている。昨年、ほぼ同時に起きた2つの少数民族問題。結局、「血は水よりも濃い」ということか。
写真:ラシオの人々
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