第13回 近衞文麿とその周辺 嵯峨隆
長期化する日中戦争
内閣の強化策
近衞は日中戦争開始後、内閣の政治力を強化しようと考えていた。第72帝国議会が終わると、その試みとしてまず内閣参議を設けることとなった。1937(昭和12)年10月15日に交付された官制では、「支那事変に関する重要国務に付内閣の籌画に参せしむる為臨時内閣参議若干人を置く」と定めている。
参議は天皇が親任し、国務大臣の待遇を受けるというもので、陸軍から宇垣一成、荒木貞夫、海軍から末次信正、安保清種、政党から町田忠次、米田米蔵、秋田清、財界から郷誠之助、池田形彬、外交界から松岡洋右(満鉄総裁)が起用された。近衞好みの人選であったと言われる。参議会は定期的に開かれたが、近衞が指導力を発揮しないため、散漫になり何の建設的役割を果たすことはなかったと評されている(『加瀬俊一回顧録』)。
しかし、近衞は原田熊雄に人選の原案を示した際に、「会合させると後でいろんな議論だのなんかをしたりして」かえって危険なので、「各個に意見をきいて廻らせるやうにしようと思ふ。まあヂェスチュアに過ぎない」と述べている(『西園寺公と政局』)。近衞の考えでは、会合は形式的なもので、各人から個々に聞くことが主目的だったのである。
内閣の強化という点では、木戸の入閣もそうした意図をによるものであった。10月19日に安井文相が病気を理由に辞表を提出すると、近衞はその後任に木戸を据えようと考えた。近衞の要請に対して、木戸は中国との戦闘継続に不満を感じていたので一旦は拒否の姿勢を示した。しかし、戦争終結に向けて是非とも協力して欲しいと懇請されたため受諾し、22日の親任式を経て正式に入閣となった。木戸は学習院以来の旧友であって、お互いに性格も知っており、近衞としては閣内に有力な支持者を入れることができたのである。
近衞にとって懸案だったのは国務と統帥の関係の改善であった。側近の風見章は、両者を一手に収めた内閣制度を作り出すことを提案したが、これでは憲法改正にまで関わることになるため実現可能性は低いとして斥けられた。代わって提起されたのは、総理大臣を構成員の一人とする大本営の設置という構想であった。これには近衞も賛成であったため、風見はこの案を持って軍部に働きかけを行った。
当初、軍部は統帥権の独立を口実に、総理大臣や閣僚を構成員にすることには反対であった。しかし、軍部にも中国への派遣軍を効率よく統括するには大本営が必要だとする意見も高まり、妥協案として軍と政府の情報交換の場としての「大本営政府連絡会議」が設置された。これによって、近衞は統帥部への発言のルートを持つこととなったのである。
第一次近衛声明に至るまで
1937年10月1日、総理・外・陸・海の四相会議で「支那事変対処要綱」が決定された。これは、近衛内閣が日中戦争に対する方針を初めて明確にしたものであった。同要綱の「具体的方策」文書で示された「時局収拾の条件」は、船津工作における和平条件を基礎としているが、それは中国に満洲国の正式承認を求めたうえ、「国民の戦果に対する期待」の増大に応えるべく十分な賠償の獲得を求めていた。
しかし、「支那事変対処要綱」は単に利権要求のために戦争の拡大を望んだものではない。その基本方針は、事変を「成るべく速に、之を終結せしめ」、「真に明澄且つ恒久的なる国交を、日支間に樹立」することを目的としており、そのためには「支那及第三国に対し、時宜の折衝工作をなす」ことも必要だと述べていたのである。問題は、いずれの国が第三国となるかであった。
当時の日本は、南京や上海への爆撃により国際的な非難の的となっていた。国際連盟は9月28日に爆撃への非難決議を採択し、10月16日にはブリュッセルで開催される九ヵ国条約会議への日本招請決議を可決するなどの事態となっていた。これに対して日本政府は11月12日に会議への出席拒否の回答文を送り、さらに近衞は11月26日の車中で記者団に向かって次のように述べた。
「九ヵ国条約は案の定、大したことも出来ずに終つたが、我が国としても条約廃棄といふ所まで行くだらう。……我が国としては極東のことに欧米の介入を許さぬ建前であることは数年前より明白になつてゐるのだから、本来ならば当然もつと早くやつて置くべきだつた」(「近衞首相車中談」、『東京朝日新聞』1937年11月27日)。近衞はここで明確に、アジアからの欧米勢力の排除と九ヵ国条約撤廃の姿勢を示したのである。
日本政府は当初、第三国の仲介なしに日中間の話し合いの可能性があると考えたため、調停自体に否定的だったが、1937年10月になってそれを受け入れる姿勢を見せるようになった。10月2日、陸・海・外三局長会議は、「帝国を被告の地位に置く干渉ないし調停はこれを排除するも、(中略)イギリス、アメリカその他の第三国側の好意的斡旋は、その方法宜しきを得ればこれを中国側引き出しの具として利用すること有利なり」との前提のもとに、「第三国の公正なる和平勧告的斡旋はこれを受理する」方針を決定し、総理・外・陸・海の四大臣がこれを承認した。この方針は、10月27日に広田外相から英・米・仏・独・伊の各国大使に伝えられた。
仲介の申し出はまずイギリスからあったが、陸軍の反対で受け容れられることはなかった。イギリスが中国の背後にあって、国民政府の補強工作をしているというのが理由だったが、実は陸軍はドイツに花を持たせたかったのだとも言われている。果たして、政府は軍部の支持の下に駐華ドイツ大使トラウトマンに和平の仲介を依頼することとなった。11月2日に日本側から駐日ドイツ大使ディルクセンに提示された和平条件は、①内蒙古自治政府の樹立、②華北での非武装地帯の設定と親日的行政長官の任命、鉱物採掘権交渉の持続、③上海に非武装地帯を拡大し、国際警察により管理する、④反日政策の廃止、⑤共同防共、⑥日本製品の関税引き下げ、⑦外国人の権利の尊重、であった。
この条件を伝えられた蔣介石は、11月5日、ブリュッセル会議が開催中であることを理由に交渉を拒絶した。しかし同会議は、中国が期待した日本に対する経済制裁などの措置をとることができないまま、11月24日をもって閉会した。期待を裏切られた蔣介石は12月2日、改めてトラウトマンに日本側の和平条件の協議に応じることを明らかにした。
この間、日本軍は上海方面から敗走する中国軍を追撃し、やがて南京方面へと向かった。12月13日には南京が陥落した。近衞は翌日、「国民政府なるものは実態なきに等しい」とし、「方向の正しい新政権の発生する場合は、日本はこれと共に共存共栄具体的方策を講ずる外なくなるであらう」と声明した(「南京陥落に際しての声明」)。
これによって、日本政府の蔣介石政権への要求も一層高まることとなる。14日に開かれた大本営政府連絡会議では、和平交渉案について話し合われた。その結果、華北・華中での非武装地帯の拡大、内蒙古自治政府および華北特殊政治機構の承認、賠償金の支払い、必要な期間における保障駐兵などの条件が議定された。
会議の終盤、強硬論者である末次内相は「かゝる条件にて国民はこれに納得すべきか」と発言した。条件の加重を求めたのである。すると、それまで沈黙を守っていた近衞は口を開き、「これ等の条件にて和平することが国家のために最善の途なりとせば、如何なる反対、如何なる不満ありとするもこれを断行せざる可からずと」と述べたという(『風見章日記』)。この発言は、近衞が和平に積極的であるとの印象を与えるものである。
和平案は12月23日に広田外相からディルクセン大使に提示されたが、翌24日の閣議では「支那事変対処要綱(甲)」が決定された。ここでは、蒋介石が屈服せずに抗日政策を続ける場合には、「今後は必ずしも南京政府との交渉成立を期待せず」、華北の防共親日政権を拡大強化し、「更生支那の中心勢力たらしむる如く指導す」とされており、明らかにトラウトマン工作の趣旨と矛盾するものだったが、そこには国民政府を和平交渉に誘導する意図があったとも見られなくもない。加えて、戦力面から長期戦を避けて早期和平を求める軍部の意向も無視できなかったであろう。
和平案はトラウトマンを通じて12月26日に中国側に通告されたが、期限とされた1938年1月5日になっても明確な意思の表明はなされなかった。以後数日間のうちに、閣内の空気は急速に変化する。風見によれば、「一月七、八日になると、和平交渉無用論が圧倒的となり、近衞氏としても、関係幕僚たる陸海外三相が、それを妥当だとするいたったので、それにしたがわざるをえなかった」(『近衛内閣』)とされる。近衞は抗すべからざる時の勢いに押されたと言えよう。
そこで、近衞は同月11日に御前会議を開き、「支那現中央政府が和を求め来らざる場合に於ては、帝国は爾後之を相手とする事変解決に期待を掛けず、新興支那政権の成立を助長し、これと両国国交の調整を協定」するという「支那事変処理根本方針」を決定した。14日に至って、ドイツを介して中国政府の回答がもたらされたが、それは講和条約の詳細な内容を照会したものであったため、政府はこれを遅延策に過ぎないと見なして交渉の打ち切りを決定した。
翌15日の大本営政府連絡会議では、「対手とせず」との声明を出すことを決定したが、閑院宮参謀総長が、声明した後に蔣介石が和平をやると言ったらどうするかと聞いたところ、近衞は「絶対に相手に致しません」と断言している。そして1月16日、内閣は「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し是と両国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす」との声明を発表したのである(「第一次近衛声明」)。
同月18日に「補足的声明」が発表されたが、それによれば「国民政府を対手とせずと云ふのは、同政府の否認よりも強いもの」であり、「今回は国際法上新例を開いて国民政府を否認すると共に之を抹殺せんとする」ものであるとされた。この文言によって、声明の意味は強化されたと言える。またそこでは、対手としないのだから宣戦布告もあり得ないとも付言されていた。そして、近衞は同日夜の記者会見において、「国民政府を壊滅に導く為には、必ずしも軍事行動に限らず、あらゆる工作を進めねばならぬ」とし、外交によって国際的理解を得ることが必要だと述べたのである(「国民政府壊滅を期す」、『東京朝日新聞』1938年1月18日)。
近衞は戦後公開された文書において、この声明は「外務省の起案により広田外相から閣議にかけられたもので、これに後の北支臨時政府の王克敏の要望に基き軍部が正面から乗つて帝国政府声明とした」ものであったとしている(『失はれし政治』)。近衞としては、軍部に乗せられただけだと言いたかったのだろう。だが、決断したのは近衞だったという事実は消えない。この声明は、従来の国民政府に反省を促すという戦争目的を、新政権による「更生新支那」の創出という新たな目的に置き換えたという点で、それまでの対中国政策の失敗を認めたものであった。以後、日中戦争は新たな展開を迎えることとなる。




