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第14回 近衞文麿とその周辺 嵯峨隆

第14回 近衞文麿とその周辺 嵯峨隆

近衞三原則への過程

政策の転換へ

近衞が「対手とせず」声明を発表した時点で、彼の周囲では日中関係の将来を危ぶむ声が上がった。近衞と親しかった同盟通信社上海支局長の松本重治は声明文を読んで、「『反省』しなければならないのは、むしろ『帝国政府』であり、近衞首相であると思った」と記している(『上海時代』上巻)。また、石射猪太郎は閣議の決定を聞いた1938114日の日記に、この決定によって「誰かにベソをかくだろう」と書いている。実際、声明が出されても、国民政府は地方政権化することも、また権威が衰えることもなかった。声明は実効性を欠いていたのである。

近衞内閣は第73回帝国議会において国家総動員法案を成立させた。法案第一条によれば、国家総動員とは事変を含む戦時に際し国防目的達成のため、国の全力を最も有効に発揮させるべく人的および物的資源を統制・運用することをいう。動員する対象の物資や業務は条文に列挙されているが、運用によってはあらゆる分野に適用が可能であり、事実上政府への全権委任と見なされるものであったため、政友会や民政党では反対意見が強かった。そこで、内閣は最大の問題とされた集会禁止と新聞発行に関する条項を削除し、法の発動と運用については審議会を設置することとして議会に提出した。その結果、法案は316日に衆議院で可決され、貴族院でも24日に通過し、55日より施行された。

しかし、近衞は必ずしも法案成立に積極的だったようには見えない節がある。法案上程の224日、近衞は自ら提案理由の説明を行うはずだったが病気のため議会を欠席している。これは、政党側との対立表面化を嫌った政友会の前田米蔵の助言によるものだったという(古川隆久『近衛文麿』)。また、31日、原田が近衞の私邸を訪ね、「国家総動員法は通過しないほうがいい」との西園寺の発言を伝えたところ、近衞は「電力法案も国家総動員法案もそんなに急ぐ問題ぢやあないんだけれども……。実はやめてもよかつたんだ」と語っている(『西園寺公と政局』)。

このような消極的態度の背景には、政党側の中に総動員法案成立に協力する代わりに近衞を中心とした新党を結成させる動きがあり、近衞がそれとの関わりを嫌ったからだと言われている。近衞は「両法案が通るだけのためにそんなものに乗る必要は少しもない」という考えだった(同前)。だが、近衞は病気が回復したとして翌2日の議会に出席し、法案がナチスのように平時に適用されるものではないとの説明を行うと、それまで難航すると思われていた法案に対する空気も緩和し、議事も進行することとなった。この間の近衞の心境には測りがたいものがある。

この時期、近衞は原田ら周辺にしきりに辞意を漏らしている。37日には、「まあどうしても辞めたい。(後任は)木戸か或は広田でもいゝぢやないか。広田は積極的に別に悪いところはないし、失敗もない」と述べている。また、11日には議会終了後ぜひ辞めたいとして、後任には広田、小玉秀雄、町田忠次の名を挙げていた(同前)。

近衞が辞意を考えた最大の原因は、先の「国民政府を対手とせず」との声明が全くの失敗だったことを認識したことであった。華北と華中に成立した中華民国臨時政府と中華民国維新政府は、近衞が期待したほどの勢力にはならず、中国の民衆からは漢奸集団と見なされていた。「対手とせず」の外交方針は転換を迫られえおり、そのためには政権が代わるべきだと考えたのである。当然、周囲の人々は遺留に努めたが、近衞はなかなか翻意に応じなかった。これに対し西園寺は、「いま近衞が辞めるなどといふことは、以ての外の話」だとして、健康に問題があるのなら転地療養するなり適当な処置をし、必要があるならば総理大臣臨時代理でも置いて養生した方がいいと述べていた。近衞は15日に原田からこのことを聞き、ようやく考えを変えたのであった(同前)。

近衞は5月から6月にかけて内閣改造を行った。中でも目玉となったのは杉山陸相の更迭だった。近衞はかねてより杉山の非協力的な言動に不満を持っていたのだが、軍部大臣現役武官制のため陸軍の意向を越えて人事権を発動することは難しかった。そのため、近衞は参謀総長である閑院宮に手を回して自ら辞職に仕向ける工作を行い、これが奏功したのである。後任には板垣征四郎を充てた。

近衞はまた、官僚出身の賀屋蔵相および吉野商相に代えて財界の大物である池田成彬を蔵相兼商相に任じた。池田は三井合名常務理事として三井財閥を率いるとともに、日本銀行総裁をも務めており、財界に強い影響力を持っていた人物である。これは今後も続く戦時体制に経済・財政の面で対応していく上で、財界の一層の協力を確保したいとの考えによるものだった。このほか、文相には荒木貞夫を任じ、これまで文相・厚相兼任だった木戸を厚相専任とした。

外相には広田に代えて宇垣一成を任命した。近衞は宇垣が外相として軍部を掣肘し、日中戦争の収拾を推進することを期待したのである。宇垣は外相受諾の条件の1つに、事態が差し迫った場合には、「対手とせず」声明を取り消すことを挙げた。近衞はこれを受け容れたうえ、宇垣に「一月十六日の声明は実は余計なことを言った」のだと認め、「うまく取り消すように」と述べたという(渡辺行男『宇垣一成』、中央公論社)。また、原田の日記にも、近衞が宇垣に向かって「あんまり蔣政権を相手にしないとかいふやうなことを世間に言つてくれるな」と述べたと記されている。近衞は明確に対中国政策の転換を考えていたのである。

宇垣は近衞の期待に沿うべく熱心に対重慶工作を行った。宇垣の補佐をしたのは外務省東亜局長の石射猪太郎であった。石射は6月、中国問題についての考えをまとめた「今後ノ事変対策ニ付テノ考案」と題した意見書を宇垣に提出したが、そこには和平の条件の1つとして、「蔣介石の下野を絶対の要件とはしないこと」というものがあった。宇垣は石射の意見に賛成だと述べて中国側との交渉に入らせた。しかし、石射の意に反して宇垣は従来の政策を変えなかったため交渉は難航し、最終的には宇垣の辞職によって交渉は破綻した。近衞による対中方針の転換にもかかわらず、交渉はなかなか奏功しなかった。

 近衞新党構想

近衞を中心に新党を作ろうという動きは早くからあった。有馬頼寧の回想によれば、1936年の二・二六事件後のある日、当時東京日日新聞の記者をしていた今尾登(後に衆議院議員)の提案によって、有馬邸で林銑十郎、後藤文夫、山崎達之輔といった有力者8名が会合を開き、新党樹立について話し合ったという。しかし、これを聞いた近衞は何の関心も示さなかったということである(有馬『政界道中記』)。

近衞が首相となってからも周囲からは新党樹立の声が上がる。その先駆けとなったのは、19371216日に新聞各紙に掲載された「全国民に告ぐ」と題された檄文だった。それは一条実孝、頭山満、山本英輔の連名によるもので、政党に向かって今日の時局を説き、「彼此相対の境地を超越し、渾然一丸となりて強力政党の組織を遂げ」るべきだと主張するものであった。

議会で国家総動員法案が審議されている時期、既成の政党を解体して近衞を担ぐ強力な新党を作ろうとする動きが表面化していた。新聞では、政友会と民政党が新党に参加するのではないかとの記事が掲載されていた。また、1月中旬には民間の壮士・中溝多摩吉らによって「国内相剋排除、一国一党」を掲げる防共護国団が結成され、実力によって既成政党を解散させようとする動きも現れていた。

1938年の夏以降、再び新党結成の動きが出てくると、近衞も次第にこれに積極的な姿勢を見せるようになる。政友会の小川平吉は、827日に中溝から近衞が新党樹立の意を固めたとの情報を得ると、翌日には軽井沢に近衞を訪ね出馬について話し合っている。近衞は当初出馬については否定的な見解を示していたが、最終的にその意のあることを明らかにするようになったという(『小川平吉日記』)。

一国一党運動に熱心だった人物に亀井貫一郎がいる。社会大衆党の幹部だった亀井は193711月からヨーロッパを訪問し、384月の帰国後に新党構想を本格化させた。彼は同党を従来の階級政党から国民政党へと大転換させ、これを「国民の党」と名付けた(渡部亮「昭和新党運動の重層的展開」)。

これは、具体的には「大日本党部」として構想されることになる。同党の綱領は、「党部は国体の本義に基き全国民の組織を通じて一国一家の国家体制を具現すべし」、「国民各般の組織を通じ、有機的且機能力に民意の暢達を図り、以て皇謨を翼賛し聖慮安んじ奉るべし」、「国家全一体の志向を明徴にし、其下に国民各般の組織を指導」することなどが掲げられている(「大日本党部党規・綱領」)。

亀井と密接な連携を取っていた秋田によれば、新党結成の計画はかなり具体的なものであった。すなわち、「新党結成の目標を昭和十三年九月中旬に置き、九月十三日近衞の西園寺公訪問、同十四日近衞が各党代表を招いて解党と新党参加を勧誘、十五日近衞参内の上挙国一党の新党樹立を内奏、十六日新党結成という段取りまで出来て」いたということである(『秋田清』)。彼らがこうした計画を立てたのは、近衞が出馬するとの認識があったからであろう。実際、大日本党の綱領、党規、組織党則などは亀井が近衞の特命を受けて作成し、草案はほとんどが採用されたという(伊藤隆、2017年)。

しかし、周囲の者にとっては、これまで新党計画に慎重だった近衞が、俄に積極的な姿勢を示すようになったことは意外であった。97日、近衞が新党党首として乗り出すという話を聞いた木戸は、直ちにその事実を質しに彼を訪ねている。これに対して近衞は、一国一党を唱える秋山、秋田らの会合に招かれたことを認め、自分を党首に迎えたいとの彼らの求めに対しては、断ることも如何と思い曖昧な返事をしたのだと答えている。だが、これは恐らく木戸への弁解であり、近衞の対応は積極的だったと見てよいだろう。

近衞が亀井の新党計画に好意的だったのは、彼の政治活動に大衆的基盤を欲したためだった。有馬は次の様に述べている。「近衞という人に欠けていた唯一のものは、都会の労働者と地方の農民に何等のつながりを持たなかつたということだ。近衞君が麻生君と僕に或程度の協力を希望していたのは、要するにこの二人(亀井と麻生を指す―引用者注)を通して、その方面と連携を持ちたいという希望に他ならなかつたと思う」。近衞は「若し都市や農村の青年によつて、その人々を中心とした政党が出来るなら自分も参加したい」と述べていたとされる(『政界道中記』)。

亀井、秋山らの新党運動は、当初の計画であった9月中旬に成立には至らなかった。そして、近衞は927日から、新党問題を木戸、塩野季彦法相、末次信正内相の三相会議で検討させることになる。しかし、10月下旬になると近衞の意志に揺らぎが生じることになる。塩野によれば、党規・綱領の案は10月末に出来上がっていたが、114日の閣議後に木戸から突如新党設立が取りやめになったことが明らかにされた。塩野と末次は近衞に再考を求めて直談判したが、「従来の政党とあまり変らぬものを創つても仕方がないから止めます」と答えたという(塩野『塩野季彦回顧録』)。

近衞の変心の理由は、塩野らの計画が既成政党主導型になり、新党の大衆的画期性が薄れたことが主であったと考えられる。さらには、9月頃から生じていた日独防共協定強化をめぐる政軍内における対立が生じており、これを解決困難と見た近衞の中に政権自体を放棄したいとの気持ちが生じていたことも関連するであろう。ここに新党運動はあっけなく終焉を迎えたのである。

 

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