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〔49〕戦前の満洲温泉旅行事情 小牟田哲彦(作家)

〔49〕戦前の満洲温泉旅行事情 小牟田哲彦(作家)

▼執筆者紹介

昭和50年東京生れ。早稲田大学法学部卒業、筑波大学大学院ビジネス科学研究科企業科学専攻博士後期課程単位取得退学。日本及び東アジアの近現代交通史や鉄道に関する研究・文芸活動を専門とする。平成7年、日本国内のJR線約2万キロを全線完乗。世界70ヵ国余りにおける鉄道乗車距離の総延長は8万キロを超える。平成28年、『大日本帝国の海外鉄道』で第41回交通図書賞奨励賞受賞。 平成19年4月から平成20年3月まで霞山会発行の月刊誌『東亜』でアジア各地の船舶紀行「甲板からアジアを見る旅」(→『全アジア航路を行く』に収録)、平成20年4月から平成28年7月まで霞山会ホームページでコラム「アジアの停車場」(→『アジアの停車場:ウラジオストクからイスタンブールへ』に収録)、平成28年8月から令和2年9月までコラム「アジアの一期一会」(→『アジアの一期一会――通りすがりの異文化交流』に収録)を連載。日本文藝家協会、鉄道史学会、交通史学会会員。著書等詳しくはこちら

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〔49〕戦前の満洲温泉旅行事情

風呂好き、温泉好きの日本人は、明治から大正、昭和にかけて日本列島の外に獲得していった海外領土や権益地でも、せっせと温泉地を開発した。和風の温泉旅館が営業し、内地のような温泉街が形成された。温泉地への公共交通機関が整備されると、日本人だけでなく当該地域にもともと住んでいる人たちも温泉への行楽旅行を楽しむようになり、徐々にレジャーの一つとして定着していった。

広大な満洲にも、満鉄沿線をはじめ鉄道でアクセスできる地域を中心に温泉地が増えていった。そうして開発された温泉郷の中から、高い人気を誇った場所が「満洲三大温泉」「南満三温泉地」などと呼ばれるようになった。五龍背温泉、熊岳城温泉、湯崗子温泉がそれで、いずれも満鉄(南満洲鉄道)の停車駅が最寄り駅だった。満洲の鉄道は本線と安奉線の2幹線しかない日本資本の満鉄よりも、中華民国側の資本で建設された路線やそれらを引き継いだ満洲国鉄の方が路線網が充実しているのだが、三大温泉の最寄り駅がいずれも満鉄線上にあるのは、日本人が温泉開発を進めたからだろう。

下の画像は、朝鮮から鴨緑江を渡って満洲に入ったばかりの国境地帯に近い五龍背温泉で発行されていた絵はがきセットのカバーである。昭和14(1939)年発行の『旅程と費用概算』では、「沙河上流の河畔に瀟洒な洋風旅館を見せ、附近の眺望が良い」と紹介されている。ここでいう「洋風旅館」とは、五龍閣という満鉄直営旅館のことと思われる。ただ、洋風旅館というものの、同書の五龍閣の紹介では和室が20室あるとしか書かれていない。この絵はがきセットに収められている絵はがきには、トンガリ屋根の山荘風建物の写真と、和室の客間と縁側が障子で仕切られている日本旅館のような庭先からの写真とが混在している。

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五龍背温泉を「安奉線の幽仙峡」と形容する絵はがきセットのカバー。中央に描かれているトンガリ屋根の建物は五龍閣と思われる

昭和15(1940)年発行の『満支旅行年鑑』は、五龍背温泉の泉質について「無色透明で微かな硫化水素の臭氣を帶び、弱アルカリ性の反應があり、手觸りは滑かである」と解説している。そもそも、火山の影響で硫黄の匂いがしたり酸性度が強かったりすることが多い日本列島の温泉とは異なり、満洲の温泉は地熱で温泉が湧く非火山性のアルカリ性温泉が一般的である。内地の温泉に比べて含有成分が濃厚な温泉は少なく、また温度が低いのも特徴とされていた。五龍背温泉も、それらの典型的な要素をほぼ兼ね備えていた。

第2次世界大戦が終わり、日本人が去った後も、これらの温泉施設は新中国に引き継がれた。五龍閣の和室はさすがになくなっているだろうが、名物だった洋風建物自体は、軍の施設内にあるため外国人旅行者は立ち入れないものの、21世紀まで使用され続けてきたらしい。新型コロナウイルス禍を経た最新の状況は不明だが、いつか、上記の絵はがきを持っていって、現地で見比べることができる日が来ることを願っている。


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