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第15回 近衞文麿とその周辺 嵯峨隆

第15回 近衞文麿とその周辺 嵯峨隆

内閣総辞職に至るまで

東亜新秩序声明

1938(昭和13)年7月以降、日本軍は武漢・広東への攻略戦を開始しており、1021日には広東を陥落させ、次いで27日には軍事的要衝の地である武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)を攻略した。こうした軍事的攻勢の中で、近衛内閣は111日に「対手とせず」声明の取り消しを決定し、3日には新たな政府声明を発表した。東亜新秩序声明(第二次近衛声明)と呼ばれるものである。

近衞は声明において、日本の求めるところは「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設」にあるとし、この新秩序の建設は日満支の三国が提携し、「東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり」と述べ、中国に対してはこの任務を分担するよう協力を求めた。そして、国民政府はもはや地方の一政権に過ぎないとしながらも、「従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更生の実を挙げ、新秩序の建設に来り参ずるに於ては敢て之を拒否するものにあらず」と呼びかけた。ここには、国民政府を「対手とする」という意図が込められていたのである。

「新秩序」という言葉が政府によって公式に用いられたのは、この時が最初である。声明の原文を作ったのは中山優だったが、彼によればこの語句を使ったのは、前年近衞が渡米した際に面会したハウス大佐が、「日本がワシントン会議の体制を否定するなら、それに代るわれわれの納得するようなニュー・オーダーを提示すべきだ」と言ったことにヒントを得たものだとされている(「近衛家の悲劇」)。

同じ日、近衞は首相官邸からラジオ演説を行い、上記の声明について説明を加えた。演説の全文は、翌4日の『東京朝日新聞』に「真の戦は今始まれり」と題して掲載されている。ここで近衞は、日本が望むものは「支那の征服にあらずして、支那との協力にある」とした上で、「支那における先憂後楽の士は、速かに支那をして本来の道統に立還らしめ、更生支那を率ゐて東亜共通の使命遂行のために蹶起すべき」だと述べた。そして日本国民には、新体制建設がいかなる意義を有しているのか、それにいかなる備えが必要であるのかを徹底的に理解することで、戦時体制へのさらなる協力を求めたのである。

声明に対する国民政府の反応は厳しいものであった。すなわち、現地通信社の伝えるところでは、「日本政府の声明は、その措辞にあらわれたるかぎり、これほど、支那民族を駆って、抗戦継続の決意を固からしめ、かつ破壊的な現事変の早期解決に対する第三国の希望を粉砕するに有効なるものはない」とし、「支那の抗戦は、あくまで継続されるであろう。支那国民は、蔣介石の指揮下に、かたく結束して、立っている」と述べていたのである(風見章、前掲)。

他方において、日本政府は1938年に入り、対日和平を唱える汪兆銘に対する工作を活発化させていた。東亜新秩序声明は、この工作の進展を背景としてなされたものである。すでに、影佐禎昭(陸軍省軍務課長)、西義顕(満鉄南京事務所長)、松本重治(同盟通信社上海支局長)、今井武夫(参謀本部支那課長)らは、汪の側近である董道寧(国民政府外交部亜州局日本科長)、高宗武(国民政府外交部亜州司長)らと接触していた。

その結果、高宗武が6月に来日し、影佐と会談した際には、日本は蔣政権を否認したからには和平を実現する人物を交渉の相手としなければならないとし、それは汪兆銘以外にないと述べていた(影佐「曾走路我記」)。近衞は影佐らの対中国工作の情報を得ていたが、「一体陸軍の若い者がそんなことをやつたところで、なかなかさううまく行くものではない」と批判的に見ていた(『西園寺公と政局』)。

またこの時、高宗武は日本政府が汪兆銘を支援することを保障するならば、蔣介石は下野するだろうとし、そのために「総理から一本蔣介石に宛ててその意味の手紙が欲しい。即ち密書をくれ」と述べたが、近衞はこれを拒絶したという。このことは、近衞は汪兆銘を交渉の相手に絞りながらも、「或る場合には結局蔣介石を相手にして始末をつけなければならないかもしれない」とも考えており(同)、慎重に事を運ばなければならないと判断したためであったと考えられる。

1112日、西は部下の伊藤芳男と共に上海で梅思平らと協議した際、中国側から和平工作が進展した場合の行動計画案である「中国側挙事予定計画」を示された。これは、汪兆銘の重慶脱出から新政府の樹立、和平に至るまでの行程を記したものであった。20日からは同地において、和平草案についての最終的な話し合い(重光堂会談)が行われ、その協議内容が「日華協議記録」と「日華協議記録諒解事項」にまとめられた。

前者では、①日華防共協定の締結、②満洲国の承認、③居住・営業の自由、治外法権の撤廃、④経済合作における日本の優先権、⑤居留民の損害補償問題、⑥協約以外の日本軍の平和回復後撤退することが定められた。そして、日本政府がこの条件を発表すれば、汪兆銘は日中提携および反共政策を声明し、機を見て新政府を樹立することが約束された。

次いで、1130日の御前会議で日支新関係調整方針が決定された。それは、①善隣友好の原則に関する事項、②共同防衛の原則に関する事項、③経済提携の原則に関する事項からなり、漸次租界および治外法権などの返還を考慮する、華北・蒙疆防共駐屯以外の日本軍はなるべく早期に撤収する、戦費の賠償は要求しないなどの項目を含むものであった。しかし、具体的内容では日本側の利権を優先するものであり、到底「互恵」を基調とするとは言えるものではなかった。

日本側の決定を受けて、中国側から汪兆銘の重慶脱出は、蔣介石が昆明に行っている間の12月12日に予定しているとの通知があった。これより先、中国側関係者から汪の脱出が決まったら、それに合わせて日本政府から内外に向けてメッセージを送ってほしいとの要請があったため、近衞は11日に大阪で新国策に関する演説を行う計画を立てていた。ところが9日になって、蔣が予定を早めて重慶に戻ったため汪の脱出は無期延期になったとの連絡があった。このことを聞いた近衞は原田熊雄に、自分は病気になったことにして大阪行は中止にするとし、「支那人のことだから、悪く思へば或は今までぺてんにかゝつてゐたかもしれない」と述べた。近衞はこの後しばらく、中国に対する不信感を抱きながら荻外荘に籠もることになる。

 辞職に至るまで

19381220日、汪兆銘は陳公博、周仏海らと重慶を脱出しハノイに向かった。これに呼応して近衞は、22日に「日支国交調整方針に関する声明」すなわち第三次近衛声明を発表した。これは、日満中の三国が「善隣友好・共同防共・経済提携」の三原則の下に、東亜新秩序を建設することを呼びかけたもので、日本は中国に対し、満洲国の承認、防共協定の締結と特定地点への日本軍の駐屯、日本人の内地居住を認め、資源開発に積極的便宜を与えることを求め、その上で中国の主権を尊重して日本の治外法権を撤廃し、租界も返還するとしている。中山優によれば、この声明は参謀本部の意向を主として、堀場一雄中佐が原案を作ったものとされる。なお、文中の「日本の求むるものは区々たる領土に非ず、また戦費の賠償に非ず」の一句は、中山が独断で加えたという(「近衛家の悲劇」)。

この声明は前記の日支新係調整方針を基礎としたもので、和平の条件は先のものよりいっそう厳しいものとなっていた。中でも、声明では汪兆銘側が要求していた撤兵条項には触れられておらず、このことは彼らを失望させることとなった。影佐によれば、この件は陸軍側が作戦軍の士気に影響するとして、敢えて触れさせたくなかったのだとされている(「曾走路我記」)。

結局、この第三次声明は何の成果を挙げることもなかった。むしろ、アメリカやイギリスに蔣介石政権への物資援助の増加をさせた点では逆効果であったと言える。だが、近衞自身がこの時点で汪兆銘政権の樹立を望んでいたのかといえば、否定的な見方をしているものもある。当時、内閣書記官長だった風間章は、「(汪兆銘が)中にはいって橋渡しをしてくれるなら、国民政府との話し合いもうまくゆくだろうということにのみ、ひたすら望みをかけていた」と記している(『近衛内閣』)。そうだとすれば、汪兆銘に焦点を絞りきっていた軍部とは、かなりの温度差があったと見ることができるだろう。

近衞は10月前後からしばしば辞意を漏らしていた。929日、近衞は木戸に向かって突然「辞める」と言い出したことがある。木戸はしきりに「辞めてはいけない」と言うのだが、「どうしても辞める」と言って聞かなかった。この時は、高松宮が原田を介して「いま近衞が辞めるなどといふことは言語道断である」と伝えさせて、ようやく辞意を翻させた経緯がある。10月に入っても、近衞は総理から内大臣に転任する案を出しては西園寺に強く諌められていた。12月に入ってからは、日独防共協定強化問題における混乱もあって、近衞は総理辞職の意を強めることとなった。

この頃になると、周囲の人たちも近衞を遺留することを無意味と考えるようになった。これまでしばしば近衞に意見していた木戸でさえ、1221日に次のように述べるに至っている。「近衞がどうもあゝ気力がない――露骨にいへば多少真剣味を缺いてをるやうなら、やっぱり代つた方がよいと自分は思ふ。あとはどうも平沼よりしやうがないぢやないか」(『西園寺公と政局』)。また、28日には小山完吾に向かって、「近衞公にはなんらの主義主張なく、また悪者ぐらひにて、内閣の不一致、いまや如何ともいたし方なし」と述べている(『小山完吾日記』)。近衞に対する失望感は大きかったのである。

かくして、193914日、近衛内閣は総辞職した。ここに、17ヵ月にわたる第一次近衛内閣は終焉を迎えた。退陣の声明では、日中戦争に十分対応できないまま今日に至ったことを遺憾としながらも、今や東亜永遠の平和を確保すべき新秩序の建設に注力すべき時期に至ったとし、「此の新たなる事態に処するが為には、新たなる内閣の下に新たなる庶政の構想工夫を運らし、以て民心の一新を図ることの必要なるを確信する」としたのである(「辞表捧呈について」)。

内閣総辞職後、総理大臣としての近衞に対する批判の文章はいくつか提示されているが、矢部貞治は有馬頼寧の次のような発言を紹介している。それによれば、近衞は議会における演説、答弁、政治的手腕、大局を見るの明、殊に日本の将来に対する国際関係、皇室と国民との関係等については、他に比肩するもののない洞察力と識見を持っていたと評価される。それと同時に、「彼が一度も平大臣を経ず、下積みの経験もなく、待た国民大衆の基礎の上に立たず、大衆の中に身を投じてその中に立上がつたものでなかった点に、最大の欠陥があつた」とも述べている(『近衞文麿』)。当時においては、極めて的確な評価と言えるだろう。

 

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