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第505回 重慶中心部にひっそりと残る大空襲遺跡 伊藤努

第505回 重慶中心部にひっそりと残る大空襲遺跡 伊藤努

第505回 重慶中心部にひっそりと残る大空襲遺跡

日中戦争の勃発によって臨時政府の首都・南京を失った蔣介石率いる国民党政府は、中国内陸部の戦略的要衝の重慶を戦時首都に定め、日本軍に抵抗する拠点とした。それ以降、1945年の第2次世界大戦終結(日本の降伏・敗戦)を経て、毛沢東が最高指導者の共産党が新中国を建国する1949年まで、多くの歴史的事件が重慶で発生した。このような歴史的背景から、重慶には中国革命関連の史跡が多く残っており、重慶市中心部の中洲の人民広場の近くにある「重慶中国三峡博物館」を訪れれば、重慶の歴史や文化、自然に関する貴重な収蔵品の多さに圧倒される。

近代的な外観の大きなこの博物館は、▽重慶を流れる長江(揚子江)の下流域にある奇観で知られる三峡に関連する展示を行う「壮麗三峡」▽重慶の長い歴史を概観する「遠古巴渝」(重慶の略称は巴または渝とも中国語で表記することからこの名称となっている)▽近代に入って以降の重慶の都市の変遷を知ることができる「城市之路」▽抗日運動を展示する「抗戦歳月」――に分かれており、じっくり見学すれば、半日はかかってしまう。

今回、重慶を訪ねた筆者ら中国視察団一行は、この博物館でこれらのテーマごとの展示室を一通り見て回り、重慶の長い歴史や文化などの知識を頭に入れた上で、博物館の近くにある日中戦争時の重慶大空襲遺跡を参観した。重慶大空襲は、攻撃した側である日本軍から見れば、「重慶爆撃」となり、第2次大戦中に世界各地であった非戦闘員の市民を無差別に空爆した事例の中でも規模の大きなものとして今も語り継がれている。
 
日中戦争で上海、南京、武漢という中国側の重要な軍事拠点を相次いで攻略した当時の日本軍は1938年ごろから、山岳地帯に囲まれた要衝の重慶に臨時首都を移した国民党政府に圧力をかける軍事作戦の一環として、占領した武漢を出撃基地とした重慶爆撃を5年間にわたり断続的に実施した。この間、200回以上にわたる軍用機編隊の爆撃により、多数の地元住民が死傷した。
 
このうち、1度の空爆で最も多数の犠牲者が出たのが真珠湾への奇襲攻撃で太平洋戦争の火ぶたが切って落とされるほぼ半年前の1941年(昭和16年)6月5日に起きた重慶大空襲で、警報を聞いて重慶市の中心部にあった大きな防空壕(中国での呼び名は防空洞)に逃げ込んだ多数の市民がパニック状態となり、その多くが壕の中で窒息死したという悲劇だ。犠牲者の人数については幾つかの説があるが、死者は最大で2500人に上ったとの見方が有力とされる。
 
悲劇の舞台となった地下に延びる防空壕の長さは2500メートルあるといい、非常時には3つの入り口から1万人を収容できる広さだが、日本軍の空襲によってこのように多くの犠牲者が出たのは、当時、この防空壕を管理していた国民党政府の手落ちも一因だったとされる。抗日戦争では手を組んだ蔣介石の国民党と毛沢東の共産党だが、日本の敗戦後は国共対立が激化して内戦が再開。その結果、内戦に敗れた国民党は台湾に逃れるが、今なお残る重慶大空襲時の人的被害拡大の背景として、国民党政府の管理上の責任が語られるのも、現政権側の政治的思惑がありそうだ。
 
重慶の繁華街の通りに面した一つの入り口に小さな記念碑があり、防空壕に通じる地下1階の一室に重慶大空襲に関する当時の犠牲者の写真や関連資料が置かれていた。旅行ガイド本として有名な「地球の歩き方」(中国編)の重慶の項の観光スポットや観光地図にも重慶大空襲遺跡の記述はないので、一般の日本人観光客にはあまり知られていないのではないか。
 
日本語が上手な地元ガイドの蒲(かば)さんは、重慶大空襲の詳しい歴史を説明しながら、市内で唯一保存されている大空襲の遺跡を案内してくれたが、現在は管理上、立ち入りができないこの防空壕も、いざというときには利用することができる態勢を整えていると話していた。防空壕の入り口の狭い部屋には、中国語で「居安思危」という標語が掲げられていたが、「安心・安全に生きていても、危険があることを決して忘れてはならない」という意味だそうだ。重慶を戦争中に襲った大空襲の教訓を今に生かそうということなのだろう。

 

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