1. HOME
  2. 記事・コラム一覧
  3. コラム
  4. 第5回「中江兆民」 栗田尚弥

記事・コラム一覧

第5回「中江兆民」 栗田尚弥

第5回「中江兆民」 栗田尚弥

「中江兆民」

『近衞日記』を読んでみると、思わぬ人物が近衞と関わりをもっていることがわかる。自由民権運動の理論的指導者であり、またその奇行と歯にきぬ着せぬ言説で「天下のスネ者」と言われた中江兆民(篤介)もその一人である。

中江兆民は弘化4(1847)年、土佐藩の足軽の家に生まれた。軽輩ながら藩校文武館に学び、さらに長崎に派遣されフランス語を習得、江戸においてフランス公使の通訳を務めるまでになった。維新後は司法省に出仕、岩倉遣欧米使節団の一員として渡欧、明治5(1872)年から7年までフランスで学び、ルソーやモンテスキュー等の啓蒙思想を学んだ。帰国後は東京外国語学校長、元老院権少書記官などを歴任、そのかたわら仏学塾を開き、フランス学を中心にヨーロッパの法学や文学を青年たちに教えた(このなかには若き日の根津一もいた)。

明治10年、官を辞し仏学塾経営や翻訳に従事するが、自由民権運動への関わりを深め、『東洋自由新聞』(社長西園寺公望)主筆として健筆をふるった。また、15年には、ルソーの『社会契約説』を仏学塾から翻訳し、『民約訳解』として刊行、そのため「東洋のルソー」と評されるようになる。ちなみに、『民約訳解』は漢訳され、中国革命にも影響を与えたとも言われている。

明治23年、第1回衆議院議員選挙に当選、代議士となり、同年立憲自由党が結成されると、同党の機関紙『立憲自由新聞』の主筆を務めたが、いわゆる自由党土佐派の裏切りによって政府予算案が成立すると、これに憤り24年議員を辞任、『立憲自由新聞』主筆も辞任する。以後は、小樽に『北門新報』を創刊・経営に従事する(主筆兼務)など実業家として様々な会社に関係する。ただし、政治に対して全く関心がなくなったというわけでなく、例えば、明治24年の第2回衆院選挙に際して、仏学塾出身の小山久之助、堀内賢郎の両名が長野県で立候補すると、彼らの応援に駆けつけている。

中江が近衞に関心を抱くようになったのは、明治33年9月頃のことと思われる。この月11日、近衞を中心に長岡護美、陸羯南、犬養毅、根津一、頭山満らが集まり、国民同盟会発起準備会が開かれた。中江は、この同盟会発起準備会にいたく関心を示し、弟子の幸徳秋水に、「内幕御探査」を依頼している(中江「幸徳秋水宛書簡」明治33年9月19日)。
実は、この発起準備会の少し前(8月)から、元老伊藤博文を党首とする新党結成の動きが始まっており、立憲自由党の流れをくむ憲政会も解党し伊藤新党に加わろうとしていた(9月15日、立憲政友会成立[総裁伊藤博文])。中江はこれに憤慨し、8月26日幸徳に「祭自由党」の執筆を依頼している。中江が、アンチ伊藤新党的存在として国民同盟会に関心を示したことは、先の幸徳宛書簡に、「国民同盟会之設は時節柄至極面白く被思申候」「新政党(政友会のこと-引用者注)の側にて余程気に致し居候と被察」とあることから明らかである。

9月24日、多分友人頭山満のさそいによるものであろうか、中江は上野精養軒において開かれた国民同盟会発起大会に参加している。さらに10月16日には国民同盟会の関東北信在京有志者の会合に出席し、同月21日には国民同盟会懇親会に出席している。そして、12月16日、中江は近衞らともに水戸に向かい、同地で開催された国民同盟会水戸大会で演説し、同月末には国民同盟会拡張委員に就任した。

以後、中江は国民同盟会に積極的に関わり、同盟会の各種会合にしばしば参加し、明治34年2月10日には、同盟会の地方遊説委員に就任、同年3月10日には長野県で開催された政談演説会に出席している。

中江の国民同盟会参加の真意が、同盟会をアンチ立憲政友会の政党にすることにあったということはしばしば指摘される。確かに、中江は近衞に対しても「今日の政界腐敗したれば奮つて純潔の政党を組織すべし」と語っている(『近衞篤麿日記』第3巻、明治33年11月25日の項)。しかし、果たしてそれだけであろうか。

明治34年4月、中江は喉頭癌に罹患していることは判明、余命一年半の宣告を受ける(実際には同年12月死去)。癌に冒された体に鞭打つ様に、中江は遺書とも言うべき『一年有半』『続一年有半』を執筆した。その『一年有半』のなかで、中江は近衞について次のように述べている。

 近衞公、最上名門の胄を以て、南船北馬少も労を辞する無く、尤も意を東洋大陸の事に用ゐ、
 其薩長内閣に伴食大臣たるを肯んぜずして、独り好みて学習院に長となり、華族子弟の教育を司る者、
 是其志趣遠大なりと謂ふ可し

かつて中江は、平岡浩太郎らとともに、将来の日中関係を担う人材を育成すべく、上海に東洋学館という学校を設立したことがある(明治17年、但し1年半で閉鎖)。今日、東洋学館を東亜同文書院の「先駆け」と評する研究者もいる。 東亜同文会や国民同盟会には、「右翼の源流」頭山満とのちに軍部の凶弾に斃れる犬養毅がともに参加しているように、様々な政治的主張を有するものが、ともに集い中国やアジアについて議論した。中江の代表作、『三酔人経綸問答』は、対外策や国防などに関して意見を異にする三人の論客が、ともに酒を酌み交わしながら議論する、という形態をとっている。そして、「日本のルソー」中江の親友は「右翼の源流」頭山であり、一番弟子は原初の社会主義者の一人でのちに無政府主義者となる「大逆事件の主犯」幸徳秋水であった。

中江は、近衞のなかに自分と同じ何か-それは明治の精神というべきものかもしれない-を感じ取ったのであろうか。


《霞山人国記 栗田尚弥》前回  
《霞山人国記 栗田尚弥》次回
《霞山人国記 栗田尚弥》の記事一覧

タグ

全部見る