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第4回「長岡護美」-近衞篤麿を支えた東亜同文会副会長-栗田尚弥

第4回「長岡護美」-近衞篤麿を支えた東亜同文会副会長-栗田尚弥

「長岡護美」-近衞篤麿を支えた東亜同文会副会長-

昭和15年(1940)年7月、第2次内閣を組閣した近衞文麿は、娘温子の夫・細川護貞 (細川護熙元首相の父)を首相秘書官に採用した。護貞は後に松宮宣仁親王の御用掛となり、近衞文麿の側近として終戦工作に一役買うことになる。

近衞家と細川家の縁は、明治以前に遡る。以前この連載でも紹介したように、文麿の父・近衞篤麿の弟・英麿は元弘前藩主津軽承昭の養子となり津軽家を継いだ。津軽承昭は、実は津軽家の出ではなく、熊本藩主細川斉護(護貞の曾祖父)の四男である。さらに、承昭の継室・尹子は近衞忠煕の娘(篤麿の叔母)であった。したがって、近衞家と細川家は姻戚関係にあった、ということになる。この津軽承昭の弟、細川護貞にとっては大叔父に当たるのが長岡護美(1842-1906)である。そして、細川護貞が秘書官として近衞文麿を支えたように、大叔父長岡護美も東亜同文会副会長として、近衞篤麿を支えた。

長岡護美は、天保13(1842)年、熊本藩主細川斉護の六男として熊本に生まれた(通称・良之助)。嘉永3(1850)年、足利将軍家の一門である喜連川煕氏(下野喜連川藩主)の養子となったが、安政5(1858)年、故あって喜連川家を離れ、熊本に戻り長岡氏を名乗った。長岡氏は、細川家の一族家老の苗字である。

維新後、長岡は、明治政府の参与さらに熊本藩大参事に就任、藩政改革に辣腕をふるった。廃藩置県後の、明治5(1872)年から12年にかけて、米国を経て英国ケンブリッジ大学に留学し、留学後外務省に奉職、同13年オランダ公使(ベルギー、デンマーク公使を兼任)に任ぜられた。明治15年、元老院議官に勅任され、その後高等法院陪席裁判官に就任した。明治17年男爵に叙せられ、24年子爵に陞爵、同年貴族院議員に勅任された。

長岡は、かねてより中国問題、アジア問題に関心が深く、明治13年オランダ公使就任に先立ち、曾根俊虎や南部次郎らによって日本初の興亜団体、興亜会が組織されると推されてその会長に就任した(海外赴任中、一時会長職を離れたが、帰国後再任)。長岡はこの他、明治36年に「清韓其他亜細亜諸国に於ける医事衛生の状況」(長岡「同仁会の所思を述べ日本全国の有志諸君に寄する文」)の改善を目的とした同仁会が設立されると、その会長に就任している。また、直接中国やアジアとは関係はないが、日本の教育制度について研究する学制研究会の会長にも就任している。

明治31年6月、近衞篤麿が中国問題研究のため、同文会の設立を企てると近衞から直接勧誘を受け、「直ちに同意」(『近衞篤麿日記』第2巻)、発起人に名を連ねた。同年11月、東亜会と同文会が合併、東亜同文会が成立すると当然これに参加し、間もなく副会長に就任、明治33年には興亜会の後身亜細亜協会の東亜同文会への合流に尽力した。

長岡は副会長として近衞をよく補佐し、明治33年、北清事変(義和団事件)の変乱を避け、光緒帝、西太后が西安に蒙塵すると、長岡はこれを懸念、光緒帝に回鑾を促す意見書(『清国改革奏議』、名義は近衞)を近衞とともに作成した。また翌34年5月、東亜同文書院の開院式に列席すべく渡清した長岡は、上海での開院式終了後、南京に両江総督劉坤一を、武昌(現、武漢市)に湖広総督張之洞を訪問、『清国改革奏議』を手交している。

明治33年9月、ロシアの満州侵出を懸念した近衞は「支那保全」の立場から、東亜同文会のメンバーを中心に対外硬団体国民同盟会を組織した。しかし、東亜同文会内部には、「東亜同文会は、形式に於て同盟会と別物たるも、閣下(近衞-引用者注)が同盟会に於ける態度如何は直に同文会の運命に関するもの多きをや」(五百木良三の近衞宛書簡、『近衞篤麿日記』第3巻)という具合に、懸念を表明するものもあった。長岡も、「同盟会を離れて専ら同文会に尽力ありたし」(同書)と近衞に諫言している。長岡が、単なるイエスマンでなかった証左である。

長岡は、中国人留学生の教育にも熱心で、明治36年6月には留学生を対象とした東京同文書院の院長に就任している。ちなみに、長岡の後を襲って東京同文書院2代目院長に就任したのは、甥の細川護成(後に東亜同文会副会長)であった。



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