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第6回「大内暢三」―近衞篤麿の薫陶を受けた東亜同文書院院長― 栗田尚弥

第6回「大内暢三」―近衞篤麿の薫陶を受けた東亜同文書院院長― 栗田尚弥

「大内暢三」―近衞篤麿の薫陶を受けた東亜同文書院院長―

昭和6(1931)年9月、日本関東軍は、奉天(現、瀋陽)郊外柳条湖において中国軍との軍事衝突事件(柳条湖事件)を引き起こした。この事件をきっかけとして、いわゆる満州事変が始まるわけであるが、事件はその後の第一次上海事変、日中戦争、第二次上海事変、太平洋戦争へと続く「15年戦争」のプロローグでもあった。

それは東亜同文書院にとっても、苦難の年月の始まりであった。昭和7年の第一次上海事変の際には、一時全書院生が日本内地に引きあげ、12年11月には、上海の校舎が日中戦争の兵火に焼かれた。その少し前には、書院生が従軍通訳として戦場に赴くことになった。

大内暢三が、東亜同文書院に赴任したのは、まさにこの苦難の歴史が始まろうとしていた時であった。大内は、昭和6年1月、近衞文麿院長の代理として上海に赴き、同年12月、正式に院長に就任した。

大内暢三は、明治7(1874)年3月、旧柳川藩士大内精一郎の長男として、福岡県八女郡白木村(現、八女市立花町)に生まれた。現在、その生家は、八女市の文化財として保存されている。

橘陰館中学、熊本英学校で学んだ後、大内は、多分白木村長(初代)、福岡県会議員を歴任した父・精一郎の影響であろうか、政治家を志し、東京専門学校(現、早稲田大学)に入学する。同校卒業後は、米国のコロンビア大学に入学(明治27年7月)、法律学修士の学位を取得後、ヨーロッパを視察、明治30年2月帰国した。

帰国後、大内は、母校東京専門学校の教師となるが、同校評議員であった高田早苗(後に早大総長)の紹介により、近衞篤麿の知遇を得る(明治30年10月頃)。この時大内は、留学時代の体験をもとに、欧米白色人種の人種主義(レイシズム)について弁じたてた。しかし、近衞は、自身も留学時代人種主義を体験していたのにもかかわらず、白色人種が、黄色人種に対して差別感を持つのは、黄色人種の側に「文化が足らぬ」からであり、「文化的に彼等に勝つ為には一層奮発しなければならぬ」と大内を諭した(大内暢三「近衞霞山公と東亜同文会」、『支那』第25巻第2・3合併号)。以後、大内は近衞の側近の一人となり、近衞の活動を助けることになる。

明治31年、近衞が同文会の設立に乗り出すと、大内も井手三郎、中西正樹、白岩龍平らとともにこの計画に参加、同年11月に同文会と東亜会が合併して、近衞を会長とする東亜同文会が発足すると、大内も当然これに参加、以後同会の重鎮として会の運営に参与することになる。明治33年9月、近衞が、東亜同文会のメンバーを軸に国民同盟会を組織すると、大内もこれに参加した。ただし、同盟会の有りようについては、些か疑問も抱いていたようで、「国民同盟会なるものが他政党の如き性質を有し、又其会員なるものが政権争奪の間に野望を懐くものなれば格別、否らざる以上は今日に至って久しく国民同盟会の生存を必要に認め不申」(近衞宛書簡、明治33年11月12日、『近衞篤麿日記』第三巻)と、近衞に書き送っている。

東亜同文会以外でも、大内は常に近衞を助けた。例えば、明治31年10月14日の近衞の日記には、大内が高田早苗らとともに、「近衞」を「洋行」させるべく「尽力」したことが記されている(『近衞日記』第二巻)。この「洋行」は、翌年4月から11月にかけての欧米「漫遊」(工藤武重『近衞篤麿公』)となって実現するが、大内もこの「漫遊」に同伴している。

また、国民同盟会に先駆けて、近衞のもとに参集した若手の政治家、法律家、学者、ジャーナリストによって東洋倶楽部が組織されると、大内はその幹事に就任している。さらに、近衞が、国民同盟会の准機関誌とも言うべき雑誌『東洋』を創刊した際には、五百木良三とともに、その準備の中心を担っている。

ところで、東亜同文会と言えば「支那保全」で有名であるが、発会決議のうちの「支那の改善を助成す」及び「支那の時事を討究し実行を記す」を一時、それぞれ「支那及び朝鮮の改善を助成す」「支那及び朝鮮の時事を討究し実行を期す」と変更しているように、東亜同文会は朝鮮情勢にも深い関心を示した。例えば、同会は朝鮮半島に京城支部と木浦支部を設置し、漢文の情報誌『漢城月報』も発行している。また、短期間ではあるが、学校(城津学堂、平壌日語学堂)も現地で経営している。

大内も朝鮮情勢に深い関心を示している。例えば、日露戦争以前、大韓帝国(李氏朝鮮)は、ロシアとの結びつきを強めていたが、大内はこれを憂慮し朝鮮の中立化を主張し、朝鮮駐日公使趙秉式と議論、自己の「説に同意せし」めている(『近衞日記』第3巻)。なお、近衞没後のことであるが、大内は、木浦での開墾事業に従事し、朝鮮京南鉄道の取締役も務めた。

明治41年5月、大内は第10回総選挙に憲政本党から出馬・当選、以後当選を重ね、昭和5年まで22年間に及ぶ代議士生活を送った。その一方で近衞の志を継ぎ、北京人文科学研究所、上海自然科学研究所の開設に尽力する等外務省の対中文化事業に深く関与した。

代議士引退の翌年、大内は東亜同文書院に院長代理、さらに院長として奉職することになった(先述)。昭和12年、通訳として従軍する書院生を前に、大内は、「軍事通訳に出動することは、日本軍のためだけでなく、むしろ中国民衆のためになる」(大学史編纂委員会『東亜同文書院大学史』)と語った。日中提携という青年時代から抱いてきた理想と日中戦争という現実の間で苦悩する大内の心の叫びであった。

昭和15年9月、大内暢三は東亜同文書院院長の職を辞した。その4年後の昭和19年12月、大内は東京五反田の自宅で71年の生涯を閉じた。

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