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第3回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

第3回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

息子文麿のことなど

今回は近衛篤麿の日常生活の中で、文麿に対する父親としての姿などを見ていきたい。近衞は40歳で他界するので、文麿と接し得たのは僅か13年間でしかなかった。

昨年出版した『近衞篤麿評伝』でも簡単に触れておいたが、近衞が結婚したのは1885(明治18)年3月3日のことである。妻となったのは、旧加賀藩主前田慶寧の娘衍子(さわこ)であった。しかし、近衞は新婚早々の4月18日に欧州留学に出発する。帰国したのは90年9月12日のことであった。翌年10月12日、文麿が誕生した。近衛家第29代の当主となる人物である。

ところが、衍子は文麿誕生からわずか8日後、産褥熱のため世を去ってしまった。近衞は1年余り後に、衍子の実妹である貞子(もとこ)を後妻に迎え、武子、秀麿、直麿、忠麿の子供をもうけるが、文麿は実の母親の顔を知らぬまま一生を送ることになる。父もこの子を不憫に思ったのであろう。そうした気持ちは次の歌に現れている。

なき数にはゝのいりしをしらぬ子の 笑顔見るさへ涙なりけり

文麿はしばらくの間は貞子を実の母だと思いこんでいたらしい。中学生の頃のことといわれるが、彼は亡父の墓参りに行った際に近くに衍子の墓があることを知り、記された命日を見て自分の生後すぐに死んだことを認識したのであった。この後、文麿は世の中は嘘だらけだと思うようになったという。だが、おそらく近衞夫妻とすれば、文麿が子供の間は実母の問題は伏せておくことが良いと考えていたのであろう。

近衞家の跡取りでもあることから、文麿は皇室からも特別扱いされていた。彼は3歳の時に初めて召されて参内している。同伴した貞子は「皇后様は御親類附き合いのようにして下された」と述べている。9歳の時も参内するが、この時、文麿は宮中で「小関白」と呼ばれたが、本人は意味が分からず、帰宅してから何のことかと聞いたという。

文麿が幼少の頃は、邸内には文字通りの老女や老女隠居が大勢いて、彼女らは概ね旧式の信条を持ち、子供のために何をすべきかを考えるよりも、文麿に気に入られることを競い合うような有様であった。そのため、両親すら子供の養育もままならない状態となった。そこで、近衞は知人の紹介で、1896(明治29)年6月から小川すみを文麿の教育係にした。すみは千葉女子師範での教師経験を持つ、知性を備えた女性であった。邸内では老女たちから嫌がらせを受けながらも、彼女は文麿が13歳の時まで家庭教師を務めた。

近衞は文麿が華族の子弟だからといって柔弱にしてはならないと考え、なるべく平民的に育てる方針だったという。そして自身の海外生活の経験から、外国では皇族でも学生の時は学生並みの生活をするのだといって、文麿が列車に乗る時はいつも三等車にさせていた。ただ、肝心のこと以外はあまり干渉しなかったらしい。

文麿の名前が『近衞篤麿日記』に初めて現れるのは、1896(明治29)年9月15日に上野津梁院に先祖の墓参に同行させた旨の記述においてである。文麿は前年4月、幼稚園に入ったものの、非常なはにかみ屋で臆病な性格のため不登園となっていた。当時、近衞は貴族院議員であると同時に学習院院長でもあり、極めて多忙な生活を送っていたため、文麿の相手になってやる時間はほとんどなかったものと推測される。

近衞はそのことが気になっていたのだろう。幼稚園の教員を通じて、文麿と気の合いそうな子供を自宅に遊びに来させたりしている。日曜日には親子で外出することもあった。97年9月5日の日記には次のようにある。「午後、文麿及学友藤井兼寿両童を携へて浅草公園へ赴き、四時半帰寓」。ここに書かれている二人の子供は、文麿と気の合う友人だったのだろう。なお、この日は休日であったにも拘わらず、近衞は午前中に6名の人物と面会していた。多忙の中で作り出した息子との時間だった。

時には遠出をすることもあった。10月17日には、文麿と二人の学友を連れて八王子まで行楽に行った。この日は列車の遅延や旅程の見込み違いもあって、子供たちにとってはただ疲れるだけの遠足となってしまった。その失敗を取り戻そうとしてだろうか、翌月28日には文麿と学友を連れて鎌倉に出かけている。日記の文面からすれば、この日は順調に観光できたようだ。父親としての近衞は、自らの少年時代を思い起こして、文麿にも多くの友人ができて、快活な性格になって欲しいと願っていたに違いない。

夏休みになると、子供たちは葉山の別荘で過ごすのが常だった。1900(明治33)年の夏、文麿は妹の武子と共に別荘に滞在した。この時、近衞に宛てた7月23日付の手紙が日記に付されている。それは以下のような文面である。

 「拝啓、益御機嫌克ならせられ恐悦に存じ候。去る十八日無事に着いたし候。二十一日には武子殿を車にて、私初め歩行にて、金沢へ行き貝を拾い、津軽家御別荘にて午食をなし、午後四時半金沢を発し、七時頃帰り候。昨日は気候あつき故海水浴を致し候。本日午前八時頃、池田、勢多、健と運動に出かけ、十一時頃帰り、午後には森戸明神に行き、二次頃に帰り候。秀麿殿及び表奥一同によろしく。七月二十三日 文麿 父上様 母上様」

妹の武子は3歳であったため、手紙は文麿が代筆している。文章に出て来る秀麿はまだ1歳だったので、この時は自宅にいたようだ。それにしても、この手紙の書き出し部分などは、まだ10歳にも満たない子供が書くような文章ではない。おそらく、同行した大人が指導したものと推測される。それでも、近衞は嬉しく思っただろう。

近衞の日記には、文麿からの手紙は8通掲載されている。最後の1通は、1903(明治36)年3月に書かれたもので、武子を連れて葉山に保養に行った両親に宛てたものである。内容は葉山安着の報せを受けての御機嫌伺いだが、その文章の書き方からは以前とは違った、妙に大人びた印象を受ける。そして、秀麿の文章の代筆をし、直麿、秀麿から「宜しくと云ふことで御座ります」と書くように、長男としての意識が窺えるのである。近衞も同じ思いを覚えたのではないだろうか。

父から文麿に宛てた手紙もあったのかもしれないが、現在刊行されている日記には収録されていない。また、日記の中でも文麿についての感想を述べた箇所はない。しかし、事実だけを記した文章の中においてさえも、息子の成長を願う父篤麿の思いは感じ取ることができるのである。

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