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第4回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

第4回 近衞篤麿 忙中閑あり 嵯峨隆

冗談好きで相撲好き

近衞篤麿はその風貌からして堅物のような印象を持たれがちである。彼の死後に書かれた回想記事の多くが生前の偉業を讃えるものだったことは、そうしたイメージをいっそう強めたのかもしれない。だが実際の近衞はユーモアを解する人物だったといわれ、そのことを示す逸話がいくつか残っている。

かつて、東京の九段坂上の招魂社(今の靖国神社)近くに富士見軒というレストランがあり、近衞は人と面会したり会合を開く際にそこを利用していた。ある日のこと、早めに到着した近衞は囲碁を打ちながら時間をつぶしていたことがあった。

そこに居合わせた法学者の松波仁一郎は、脇から近衞に何段くらいの腕前かと聞いてみた。すると近衞は、「某氏は二段、某君は三段。だが、ここの富士見軒の親爺はもっと強い」と答えた。「そんなに強いのですか」と聞くと、近衞は「松波くん、まだ分からないのか。五段や六段どころではない、ここは九段の上だ」と言って呵々大笑したということだ。

これは、とっさに口に出る冗談の類ではない。おそらく、近衞は以前からこの話を思いついていて、いつかは使おうと考えていたのではないだろうか。そうだとすれば、この時の近衞の呵々大笑には「してやったり」の思いが込められていたことであろう。

1899(明治32)年4月からの海外視察旅行の途中、アメリカ大陸を列車で移動中のことだが、近衞はあまりの退屈さに、随行した東亜同文会の大内暢三らと次のような珍問答を繰り広げたという(一部改変してある)。

近衞「晩に着いてもオハイオ(おはよう)州とはこれ如何に」。
大内「朝に着いてもバンクーバーと言うが如し」。
近衞「己れの国をカリ(借り)フォルニアとはこれ如何に」。
某氏「他人の国をオランダと言うが如し」。
近衞「雨が降らないのにアメリカとはこれ如何に」。
某氏「雨が降つてもフランスと言うが如し」。


凄まじい駄洒落の連発だが、このようなものでも互いに笑いあったとすれば、よほどの退屈さだったのだろう。当時の一行の様子が目に浮かぶかのようである。

ところで、近衞は1901(明治34)年7月から9月にかけて、中国北方と朝鮮を訪問している。清国の政治指導者と会うのが主な目的だったのだが、この旅行においては同行者の名前をロシア名にもじって互いに呼び合っていたという。近衞は「アツマローノフ」、陸実は「ミノルフ」、松崎内蔵助は「クラノフスキー」といった具合である。

他愛のない遊びに見えるが、時代状況から考えてみると、なぜロシア名なのかという疑問が湧いてくる。というのは、1900年7月以降、ロシアが満州占領に乗り出したことから、近衞をはじめとする対ロシア強硬派の人々はこれに反対すべく、同年9月に国民同盟会を結成し、反ロシア活動を展開していたからである。そのような状況にあっても、仮想敵国などお構いなしの、ただの遊び心の現れだったのだろうか。だが、ロシア名を遊びに使うことに抵抗はなかったのか。それとも、別に意図するところがあったのだろうか。あれから120余年後の今、再び侵略するロシアを見る時、少しく考えてしまうのである。

さて、これまで述べたこととは全く関係はないのだが、話題を相撲に移そう。近衞が無類の相撲好きであったことは近著でも述べたところである。子供の頃から相撲を取ることに熱中し、留学先のドイツでは日本人の学生仲間と相撲を取っては喜々としていた。帰国して政治家になってからは、外国人に対して相撲の取り方を教えたこともあったというほどである。

近衞の相撲好きは世間でも評判だったようだ。1899(明治32)年に出版された本に『相撲新書』(上司延貴著、博文館)というものがある。この中に、「近衞霞山公の力士評」という一文が掲載されている。興味深い内容なので、ここで紹介しておこう。

冒頭で著者は、「公の諸事に通暁せらるゝことは茲に贅せず、角力(すもう)の如きもお好みの一つとして自から其批評に精通し給ひぬ」と述べており、近衞がすでに好角家として知られていたことが理解される。

確かに、近衞の相撲を見る目は確かだった。彼は相撲部屋の稽古場を見学することが好きで、幕下あたりにいる若手力士の技量を自分の目で確かめては、将来出世できるかどうかの予想を立て、それが的中するととても喜んだという。

ある時、京都に所用で行ったついでに関西相撲の興行を見に行ったことがあった。すると、そこに知己の者がいて、近衞が好きな力士を選んで三番勝負をさせてみてはどうかと持ちかけてきた。彼が選んだのは幕下で大柄な力士と、三段目か序二段の小柄な力士だった。周囲には不釣り合いだとの声もあったが、実際に勝負してみると三番のうち二番は小柄な力士が勝ちを収めた。

近衞としては面目を保ったわけだが、実は彼はその力士の才能を見抜いており、勝つのは当然だと考えていたようだ。彼の見る目は正しかったことが分かる。なお、勝った力士は後に幕内・三役で活躍する逆鉾与治郎であり、近衞の贔屓の一人となる。

本書において、近衞は当時の上位の力士の講評を行っている。ここでは、そのうち横綱と大関についてのものを紹介しておこう。

梅の谷:「丸く肥えたる割合に躯(からだ)のこなし自在なり、年も若く力もありて、此分に進まば第二の小錦ともなるべし」。
常陸山;「落着きて態度力量共に勝れ、最も有望な力士なり。梅の谷よりも確かに立派なり」。
朝汐:「不愛嬌の力士なれども、技も力もありて立派な大関なり、只折々気の利(き)かぬ相撲取るは遺憾なり」。
小錦:「横綱としての手取りにて、力もあり自から衆力士の上にあれども、度量狭きが一つの短所なり」。


梅の谷は後に梅ケ谷と改めるが、常陸山とは競い合って精進し、1903(明治36)年の五月場所の後に揃って横綱に昇進した(ただし、常陸山が第19代で、梅ヶ谷が第20代)。この後、「梅常陸時代」と呼ばれる明治後期の相撲黄金時代が築かれた。近衞の予想通りとなったわけである。

しかし、病に冒された近衞はすでに彼らの活躍を見ることはできなくなっていた。そして、近衞は自らの願いで麻酔を使わずに手術を受けることになったが、その時、苦しみのあまり暴れないように彼の体を手術台に押さえつけていたのはこの2人だった。横綱たちにとっては辛い恩返しであったといえよう。

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